THE LIFE

彼の生涯—年代の肖像

少年から最晩年まで——学ぶことをやめなかった67年を、肖像でたどる部屋。

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— 空を見上げつづけた、67年 —
「大いなる鳥は、大白鳥の背から初めての飛翔に発つだろう——
世界を驚きで満たし、生まれた巣に、永遠の栄光をもたらしながら。」(飛翔研究の手稿より)
年代の肖像
自然の中でスケッチするヴィンチ村の少年
ヴィンチ村の少年1452年 — 少年時代 1452年、トスカーナのヴィンチ村に生まれる。オリーブの丘と流れる川、水車、植物や生き物に囲まれ、目に映るものの形や動きをよく観察し、スケッチして確かめようとする少年だった。自然は、見て、描き、考える最初の学びの場になった。
フィレンツェでの修業
フィレンツェでの修業15歳前後 父の仕事の拠点があったフィレンツェへ移る。父がレオナルドの素描を知人のヴェロッキオに見せ、その才能を認められたことから工房入りが決まった。レオナルドは見習いとして、絵画、素描、彫刻、金属加工、建築や機械の技術を学び始めた。
フィレンツェで彫刻と機械を学ぶ若いレオナルド
フィレンツェの街と工房から学ぶ10代後半 ヴェロッキオ工房では、絵画だけでなく、彫刻、金属加工、建築、機械の仕事までが同じ場所で進んでいた。レオナルドは、彫像の身体のつくり、建物の比例、職人が扱う道具や仕掛けを見比べ、形がどのように支えられ、動くのかを学んでいった。
工房で絵画制作を学ぶ若いレオナルド
工房で絵画制作を学ぶ10代後半 — 1470年前後 ヴェロッキオ工房では、一枚の絵を複数の職人や弟子が分担して仕上げた。レオナルドも、下絵、絵具の調合、背景、衣服、人物の細部など、制作の各工程を実地で学び、少しずつ重要な部分を任されるようになった。
弟子の衝撃
弟子の衝撃20歳前 師との共作「キリストの洗礼」で、左端の天使を任される。その出来を見た師が筆を折った——そう語り継がれるほどの一枚だった。
画家として登録された若いレオナルド
画家として登録される20歳 — 1472年 フィレンツェの画家組合に登録され、独立して仕事を受けられる立場になる。ヴェロッキオ工房で学びながら、共作だけでなく、自分の名による制作にも進み始めた。
《受胎告知》に取り組むレオナルド
《受胎告知》に取り組む20歳ごろ — 1472年ごろ ヴェロッキオ工房にいた若い時期、《受胎告知》を制作する。天使の翼は実際の鳥の翼を観察して描き、夕暮れの光で人物と遠景を一つの空気の中に置いた。建築には一点透視図法を用い、見る位置まで考えて画面を組み立てた。
銀の竪琴
銀の竪琴をつくる30歳 — 1482年 フィレンツェからミラノへ向かう使節の贈り物として、馬の頭部をかたどった銀の竪琴を制作する。画家だけでなく、楽器を作り演奏する才能も認められ、この竪琴を携えて新しい土地へ向かうことになった。※現物は残っておらず、掲載している銀の竪琴は伝承をもとにしたイメージです。
ミラノへ
フィレンツェを離れ、ミラノへ30歳 — 1482年 銀の竪琴を携えてフィレンツェを離れ、ミラノへ移る。宮廷への売り込みの手紙には、戦時に役立つ軽く丈夫で運びやすい橋、要塞を攻略する方法、大砲、坑道、装甲車、軍船などの構想を具体的に列挙した。また、平時には建築、水利、彫刻を手がけられ、絵画でも力を発揮できると記した。

宮廷入り後は、これらの構想についてさらに研究と設計を深めた。
祭壇画に取り組むレオナルド
ミラノで最初の大仕事31歳 — 1483年 ミラノへ移った翌年、祭壇画《巌窟の聖母》の大きな注文を受ける。期限と報酬が決められた仕事だったが、制作と支払いをめぐる交渉は長く続いた。注文されたものをただ仕上げるのではなく、自分の観察と技術をどこまで込められるかを追い続けた。
宮廷で女性の肖像を描くレオナルド
宮廷で人を描く37〜38歳 — 1489〜1490年ごろ ミラノの宮廷で、教養ある若い女性の肖像を任される。身分を示すための型どおりの顔ではなく、視線や手の動きに、その人が考え、反応している一瞬を捉えようとした。人間の内面を、身体に現れる小さな変化から見つめた仕事だった。
宮廷の日々
宮廷の日々30代後半 ミラノ公お抱えとして、宮廷の祝宴の仕掛けから城の改修案まで引き受ける。惑星が動く舞台装置「天国の祭典」を作ったのもこの時期だった。
人体比例を研究するレオナルド
人体を測る38歳ごろ — 1490年ごろ 古代の書物に記された人体の比率を、実際の身体を測って確かめる。文章をそのまま信じるのではなく、自分の目と数値で検証し、円と正方形の中に人体を描いた。描くことを、考えを見える形にして確かめる方法として使った。
知の高み
知の高み40歳を前に このころから手稿の量が一気に増える。解剖、光学、水の流れ、鳥の飛翔——別々に見えるものを、同じ帳面に並べて書きつけていた。
巨大な馬
巨大な馬41歳 高さ7メートルの馬の粘土像を披露し、ミラノ中が息を呑んだ。青銅で鋳るはずだったが、戦のために金属は大砲へ回された。
《最後の晩餐》の遠近法を設計するレオナルド
《最後の晩餐》—遠近法の設計43〜46歳 — 1495〜1498年ごろ 壁に釘を打ち、糸を張って、すべての線が一点へ集まるよう仕組んだ。その一点は、キリストのこめかみ。仕掛けを知らなくても、見る人の目は自然にそこへ吸い寄せられる。
壁画とともに
壁画とともに40代半ば 描いては何日も来ず、来たと思えば一日中立ち尽くす。修道院長は苛立ったが、彼は「考えている時間こそ仕事だ」と譲らなかった。
乾いた壁に《最後の晩餐》を描くレオナルド
《最後の晩餐》—乾いた壁への実験43〜46歳 — 1495〜1498年ごろ 湿った漆喰へ素早く描く伝統的なフレスコ技法ではなく、乾いた壁の白い下地にテンペラで描いた。全体を行き来しながら色の層を重ね、細部や光を何度も修正できる方法を選んだためである。しかし絵具は壁と一体化せず、完成後早くから剥落が始まるほど脆い作品になった。
軍事技師として
軍事技師として50歳 — 1502〜1503年ごろ ミラノを離れてフィレンツェへ戻った後、ローマ教皇軍の軍事技師として中部イタリア各地を巡る。城塞や道路、地形を測量し、町を真上から見下ろすような精密な地図を作った。その精度は、当時としては驚くべきものだった。
フィレンツェで《モナ・リザ》に取り組むレオナルド
《モナ・リザ》に取り組む51歳 — 1503年ごろ フィレンツェで、《モナ・リザ》に着手する。モデルは、フィレンツェの商人の妻リザ・ゲラルディーニとする説が有力。輪郭を線で区切らず、薄い色の層を重ねるスフマートによって、目元や口元、肌と空気の境界がわずかに移ろって見える表現を探った。
探求の夜
探求の夜50代 蝋燭の光で、心臓の仕組みを描く。血の流れ、弁の動き——400年後にようやく正しさが証明された図もある。「涙は、脳からではなく、心臓から来る。」
鳥の飛翔に関する手稿
白鳥の山——空への挑戦1505年 — 53歳 フィレンツェ郊外、フィエーゾレのチェチェリ山——通称「白鳥の山」。『鳥の飛翔に関する手稿』を書き上げた彼は、その表紙にこう記した。「大いなる鳥は、大白鳥の背から初めての飛翔に発つだろう」。実際に飛んだという確かな記録は残っていないが、弟子が滑空を試みて大怪我をしたと伝えられる。山にはいま、彼の挑戦を記念する碑が立ち、「レオナルドが空を試した山」として旅人に語り継がれている。
《モナ・リザ》を手元に置き、描き続けるレオナルド
《モナ・リザ》を描き続ける晩年まで 《モナ・リザ》を完成品として手放さず、生涯手元に置いた。薄い絵具の層を少しずつ重ね、表情と肌、背景の空気感を長い時間をかけて調整し続け、最後はフランスまで持参した。
フランスの晩年
フランスの晩年64〜67歳 フランス王フランソワ一世に招かれ、アンボワーズの館へ。王は彼を「父」と呼んだ。1517年に館を訪ねた一行は、モナ・リザ、聖アンナ、洗礼者ヨハネの三枚を見せてもらったと書き残している。
長年の研究手稿とともに晩年を過ごすレオナルド
研究とともに迎えた晩年晩年 — フランス 人体、機械、水、飛翔など、生涯にわたって描きためた研究手稿とともに晩年を過ごした。研究は完成した体系として出版されなかったが、観察と考察の膨大な記録は、死後も弟子のもとに残された。
最後のとき
最後のとき67歳 「私は生きることを学んでいると思っていた。だが、死ぬことを学んでいたのだ。」1519年5月2日、フランスの地で、その生涯を閉じる。