アルノ渓谷の風景1473年8月5日|ウフィツィ美術館(フィレンツェ)|ペンとインク・紙、19×28.5cm
21歳のときの、日付が残る最初の素描。左上に「1473年8月5日、雪の聖母マリアの祝日」と、いつもの鏡文字で記されています。人物の添え物だった風景を、それだけで一枚の主役に据えた—ヨーロッパでも最初期の例とされます。同じ若い日の逸話が残っています。父が村人から預かった木の盾に絵を頼むと、レオナルドはトカゲやバッタなど珍奇な生きものを部屋に集め、組み合わせてひとつの怪物を描き上げた。仕上がりを見た父は本物と見間違えて飛び上がり、本人は大満足だったと伝わります。目の前の自然を見つめ尽くしてから描く—この素描の岩と水にも、同じ目が働いています。
トビアスと天使1470〜75年ごろ|ヴェロッキオ工房|ナショナル・ギャラリー(ロンドン)|卵テンペラ・ポプラ板、83.6×66cm
魚と、犬。この二つを若きレオナルドが描いたとする説があります。うろこの一枚一枚が鎧のように光を返し、犬は毛のふるえまで見える—異様なほどの観察の細かさが、まず目を引きます。決め手はもっと具体的です。拡大すると、背景の草や低木が、犬の毛と魚のうろこを透かして見えている。仕上がった背景の上に、あとから薄く重ねた筆だという証拠です。工房の絵は、背景から順に塗り重ねて、最後に細部と光を置きます。その一番最後の、一番細かい仕事を弟子が任された、ということになります。天使の袖の刺繍も、負けないほど緻密です。ただしこちらは師の手。金細工師の出だったヴェロッキオは、宝石も金糸もお手のものでした。同じ緻密でも、師は人が作ったものの美しさへ、弟子は生きものの表面へ向かう。二十歳の絵に、もう分かれ道が見えています。師は美しい弟子をよくモデルにしたとも伝わり(有名なのはブロンズ像『ダヴィデ』)、この少年の顔にその面影を見る人もいます。
キリストの洗礼1470〜75年ごろ|師ヴェロッキオとの共作|ウフィツィ美術館|油彩・板、177×151cm
左端の天使と、遠くの景色の一部が、若きレオナルドの担当。この天使を見た師ヴェロッキオが「もう弟子に敵わない」と筆を折った—真偽はともかく、そう語り継がれるほどの出来でした。じつはこの一枚の板の上で、絵具の新旧が同居しています。師は卵で溶く昔ながらのテンペラ、弟子は当時まだ新しかった油絵具。柔らかく溶けるような天使の肌と、師の硬めの輪郭は、いまも同じ画面で見比べられます。レオナルドは1472年に画家の組合へ登録され、ひとり立ちの資格を得たあとも、この師の工房に残りつづけました。
受胎告知1472〜75年ごろ|ウフィツィ美術館(フィレンツェ)|油彩とテンペラ・ポプラ板、98×217cm
師ヴェロッキオの工房にいた20歳ごろの仕事。天使の翼は本物の鳥の翼を観察して描かれています。ただし本人の筆は、羽根が濃く描き込まれた付け根側まで—その先の薄くのっぺり伸びた部分は後世の継ぎ足しで、いまも色の違いで見分けられます。背景には、遠くの山ほど青く霞ませる「空気遠近法」の最初期の試み。マリアの右腕が不自然に長く見えるのは、この絵が右斜め下から見上げる場所に掛かる前提で、その角度から正しく見えるよう計算して歪ませたためと考えられています。そしてこの静けさ。レオナルドは後年の手稿で、他の画家の受胎告知を「天使がマリアを部屋から追い立てているようだ」と腐しており、驚かすより先に礼を尽くすこの天使は、その考えの実践でした。
ジネヴラ・デ・ベンチ1474〜78年ごろ|ナショナル・ギャラリー(ワシントン)|油彩・板、38.1×37cm
20代前半の肖像画で、ヨーロッパの外で見られる唯一のレオナルドの絵。当時の女性の肖像は真横向きが決まりでしたが、彼は体と顔を斜めにひねらせ、目をこちらの世界へ向けさせました。絵具の層には、若い指の跡が複数残っています。輪郭線を引く代わりに、指の腹でぼかして肌と背景を溶け合わせた—のちに「スフマート」と呼ばれる煙のようなぼかしの、いちばん早い形です。板は後年、下の部分が切り詰められ、本来は手まで描かれていたと推定されています(師ヴェロッキオの同型の彫像と、本人の手の素描から復元案が作られました)。裏面には、月桂樹と棕櫚に囲まれた杜松(ジネプロ)—彼女の名ジネヴラに掛けた洒落—と「美は徳を飾る」の銘。しかもその下層に、別の銘が隠れていることまでわかっています。
カーネーションの聖母1478〜80年ごろ|アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン)|油彩・板、62×47.5cm
油絵具の扱いをまだ実験していた時期の一枚。マリアの顔に残る乾燥のむらは、新しい絵具の乾き方を、描きながら確かめていた跡です。幼子は、母の持つ赤いカーネーションへ小さな手を伸ばしています—静止しがちな聖母子に、動きのひと筋を通す工夫。窓の外には、遠いほど青く沈む山なみ—彼が生涯描きつづけた景色の、若き日の姿です。
ブノワの聖母1478〜80年ごろ|エルミタージュ美術館(サンクトペテルブルク)|油彩・カンヴァス(板から移し替え)、49.5×33cm
威厳をもって描くのが決まりだった聖母を、幼子をあやして笑う若い母親に変えました。よく見ると、幼子は母を見ていません。差し出された十字形の花を、小さな研究者の目でじっと調べています。「見て、確かめる」姿を、幼子にまで持たせた母子です。本人の1478年のメモに「二枚の聖母マリアを始めた」とあり、その一枚がこの絵だとする説が有力です。評判を呼び、同時代の画家たちが競ってこの構図を写しました。
荒野の聖ヒエロニムス1480年ごろ・未完|ヴァチカン美術館|テンペラと油彩・クルミ板、103×75cm
荒野で石を手に、胸を打って悔いる老聖人。首から肩の筋肉は解剖の知識に裏づけられ、未完だからこそ、骨格から順に人体を組み上げていく彼の手順がそのまま見えます。足元には獅子が、これも下描きのまま横たわります。のちに板は切り分けられて行方を失い、一部は店先で腰掛けの座面に使われていたところを見つけ出されたと伝わります。繋ぎ直された一枚が、いまヴァチカンに掛かっています。
東方三博士の礼拝1481年ごろ・未完|ウフィツィ美術館|木炭・インク・水彩・油彩による下層描き・板、246×243cm
フィレンツェ郊外の修道院の注文でしたが、翌年ミラノへ移ったため、下描きのまま残されました。渦を巻く群衆、崩れる廃墟、跳ねる馬—完成作では絵具の下に消えてしまう「構想の組み立て」が、そのまま見える標本です。この一枚のために、建物の遠近法だけを別の紙に引き詰めた準備素描も残っています。即興に見える渦が、冷たいほど正確な設計の上に載っている。右端でひとりだけ画面の外を見つめる若者は、若きレオナルド自身を描き込んだものと伝わります。
岩窟の聖母1483〜86年ごろ|ルーヴル美術館(パリ)|油彩・板(カンヴァスに移し替え)、199×122cm
ミラノに移って最初の大仕事。信心会と交わした契約書が残っていて、金の飾りつけまで細かく指定されています。ところが仕上がったのは、金色のひとつもない暗い洞窟でした。指定を無視した独創は報酬の長い争いを生み、その結果、ロンドンにもう一枚の版が残ることになります。洞窟の岩は地質学の目で、草花はいまの植物学者が種類を言い当てられるほど正確に描かれ、闇の中から光だけで人物が浮かび上がります。
岩窟の聖母(ロンドン版)1495〜1508年ごろ|ナショナル・ギャラリー(ロンドン)|油彩・板、189.5×120cm
報酬をめぐる長い争いの末に描かれた、2枚目の岩窟の聖母。構図はほぼ同じでも光は冷たく澄み、人物には光輪が加わっています。近年の赤外線調査で、この絵の下から、まったく別の構図の下描きが見つかりました。いちど別の絵を描きかけ、やめて、この場面に戻った跡です。上のパリ版と見比べてください—同じ場面を、20年ちかい時を挟んで二度描いた画家の変化が見えます。
音楽家の肖像1485年ごろ|アンブロジアーナ絵画館(ミラノ)|油彩(テンペラ併用の可能性)・クルミ板、44.7×32cm
楽譜を手にした若い音楽家。男性の肖像画は、これ一枚と目されています。レオナルド自身も竪琴の名手で、フィレンツェからミラノ宮廷へは、まず音楽家として推薦されたほどでした。馬の頭部の形をした銀の竪琴を自作して携え、その音色で宮廷を驚かせたと伝わります。顔と目の光だけが完成の域まで仕上げられ、体と衣は下塗りに近いまま—視線をおのずと顔へ集める、未完の効果まで見どころです。
白貂を抱く貴婦人1489〜91年ごろ|チャルトリスキ美術館(クラクフ)|油彩・クルミ板、54.8×40.3cm
ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに愛された才媛、チェチリア・ガッレラーニ。じっと構えて描くのが常識だった時代に、ふと振り向いた一瞬をとらえました。体・顔・視線がそれぞれ別の方向を向く三段のひねりが、静止した絵に時間を流し込んでいます。腕の中の白貂は公の紋章にちなむ選び方で、前足の骨ばりまで観察が行き届いています。なお背景の黒は後世の塗り直しで、もとは青みがかった明るい色だったことが調査でわかっています。
頭蓋骨の断面1489年|英国王室コレクション(ウィンザー城)|ペンと茶色のインク・紙、18.3×13cm
頭蓋骨をのこぎりで正確に切り開き、内側の空洞まで写した解剖素描。切断面のゆがみのなさは、それ自体がひとつの職人技です。目的は「魂はどこに座っているのか」。すべての感覚が集まる一点があるはずだと考え、骨の中の空洞と神経の通り道を測り、比例の線を引いて、その座標を突き止めようとしました。左利き特有の、左上から右下へ流れる斜線の陰影も、本人の筆である目印です。500年前の観察が、現代の解剖図に劣らない正確さで残っています。
ウィトルウィウス的人体図1490年ごろ|アカデミア美術館(ヴェネツィア)|ペンと褐色インク・淡彩・メタルポイント下描き・紙、34.4×24.5cm
古代ローマの建築家ウィトルウィウスが書き残した人体の比例論を、実際に人を測って検証した素描。それまでの図解は、円と正方形を同じ中心で重ねようとして、人体のほうを不自然に歪めていました。レオナルドの答えは、中心をずらすこと。円の中心はへそ、正方形の中心はその下—これで体は歪まずに、両方へぴたりと収まりました。腕と脚は二つの姿勢が重ね描きされ、一枚の中で人が動きます。まわりを埋める文字は、いつもの左右反転の鏡文字。「人間は、小さな世界」—彼のその思想を一枚で示す図として、世界でいちばん有名な素描になりました。
馬の習作1490年ごろ|英国王室コレクション(ウィンザー城)|銀筆(メタルポイント)・青灰色に下地処理した紙、25×18.7cm
幻に終わった巨大騎馬像—高さ7メートルを超えるスフォルツァ騎馬像—のための習作。完成すれば、世界最大の騎馬像でした。レオナルドはミラノの厩舎に通って名馬を実測し、脚の比例を数字で書きとめてから、この線に落としています。実物大の粘土の原型は1493年、公女の婚礼の祝典で披露されて評判を取りました。しかし鋳造用の青銅は戦争の大砲に回され、ミラノ陥落後、原型はフランス兵の矢の的にされて崩れたと伝わります。この紙の上にだけ、あの馬が生きています。
リッタの聖母1490年ごろ|エルミタージュ美術館|弟子との共作とする説が有力|テンペラ・カンヴァス(板から移し替え)、42×33cm
乳を飲みながら、目だけはこちらを見る幼子。構想はレオナルド、筆の多くは弟子と言われますが、その眼差しの設計は紛れもなく彼のものです。ルーヴルには、この聖母の顔のための本人の習作素描が残っていて、伏せたまぶたの角度が絵とぴたり重なります。見分けどころは輪郭。本人の筆は輪郭を煙のようにぼかすのに対し、この絵の線はやや硬く、そこが「弟子の筆」とされる根拠になっています。幼子の左手には、小さな鳥がそっと握られています。
ラ・ベル・フェロニエール1490〜97年ごろ|ルーヴル美術館|油彩・クルミ板、62×44cm
横顔で描くのが決まりだった時代に、彼女の目はまっすぐこちらを向きます。立つ位置を変えても視線がついてくる—正面を見据えた瞳の、光の置き方の効果です。画面の下には石の手すりが一本。彼女はその向こう側に立ち、見る者との間に、越えられない一線が引かれています。「フェロニエール」の名は額の飾り紐のことで、後世の目録が別人のフランス王の寵姫と取り違えて付けた呼び名が、そのまま残ったと伝わります。ミラノ宮廷の女性とされますが、誰を描いたのかは、いまも議論が続いています。
ラ・ベッラ・プリンチペッサ(美しき姫君)1495年ごろか|個人蔵|帰属には諸説|黒・赤・白のチョークとペン・インク・羊皮紙(オーク板に貼付)、33×23.9cm
羊皮紙にチョークとインクで描かれた横顔の少女。ミラノ公の娘ビアンカを描いたとする説が有力ですが、本人の筆かどうか、いまも世界の専門家の意見が割れています。根拠に挙がるのは、左利き特有の左上から右下への斜線。さらに紙の端の綴じ穴が、ワルシャワに伝わるスフォルツァ家の祝いの本の綴じ位置と合う、という調査もあります。もし本物なら、一冊の本から切り離された一葉ということになります。議論がいまも開いたまま—それ自体が、この一枚の見どころです。
最後の晩餐1495〜98年|サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院(ミラノ)|テンペラ(石膏・ピッチ・マスチックの下地、乾いた壁面)、460×880cm
修道院の食堂の壁に、じっくり描き直せるよう乾いた壁へ描く独自技法で挑みました。その実験ゆえに生前から傷み始め、修復を重ねて今に伝わります。「この中に、私を裏切る者がいる」—その一言が落ちた一瞬の、十二人の動揺を描き分けた心理劇です。遠近法の消失点はキリストのこめかみ。彼はそこに釘を打ち、糸を放射状に張って部屋の線を引き、その釘の穴はいまも壁に残っています。描く姿を毎日見ていた同時代人の記録も残っています。夜明けから日暮れまで食事も忘れて描きつづける日があるかと思えば、数日間、一筆も入れずに腕を組んで眺めるだけで帰る日もあったと伝わります。
サーラ・デッレ・アッセ1498年|スフォルツァ城「アッセの間」(ミラノ)|天井装飾(壁画・修復を経て現存)
額に入った絵ではなく、部屋そのものを一枚の絵にした仕事です。天井を見上げると、16本の桑の木が枝を絡ませ、頭上いっぱいがひとつの森になります。枝には金色の縄の結び目が絡み、中央には主君をたたえる銘板が掲げられています。桑(モーロ)は、注文主ルドヴィーコ・イル・モーロの通称にちなむ仕掛けです。
聖アンナと聖母子・幼い洗礼者ヨハネ(バーリントン・ハウス・カートン)1499〜1500年ごろ|ナショナル・ギャラリー(ロンドン)|木炭・黒と白のチョーク・色地の紙(カンヴァスに貼付)、141.5×104.6cm
絵に写すための実物大の木炭下絵(カートン)が、そのまま作品として残ったもの。ふつうカートンは、輪郭に沿って針穴を開け、上から粉を叩いて壁や板に図を移します。ところがこの紙に、その穴はありません。つまり一度も「使われず」、下絵のまま大切に取り置かれたのです。木炭と白チョークだけで油彩に劣らない立体と柔らかさを出し、仕上げられなかったのに完成作より雄弁だと言われます。1987年には銃で撃たれる事件に遭いましたが、飛び散った紙の欠片から気の遠くなるような修復がなされ、いま再び公開されています。
サルバトール・ムンディ(世界の救世主)1500年ごろ|個人蔵|帰属には諸説|油彩・クルミ板、65.7×45.7cm
水晶の球を手にした救世主。長いあいだ行方不明で、上から塗りつぶされた状態で再発見され、修復で姿を現しました。1958年の競売では「模写」として45ポンド。それが2017年、絵画として史上最高額の約4億5千万ドルで落札され、世界の話題をさらいました。レオナルドの真筆かどうかは、いまも議論が続いています。手がかりのひとつが水晶の球で、本物の水晶に入る小さな気泡まで描き込まれています—鉱物を観察し尽くした人の筆とされる根拠です。
糸巻きの聖母1501年ごろ|個人蔵ほか(複数の版が伝わる)|油彩・クルミ板、48.3×36.9cm
フランス王の秘書官の注文と伝わる小さな聖母子。幼子は、十字架の形をした糸巻き棒に自分から手を伸ばしています。1501年、制作中の工房を訪ねた修道士が「小さな絵に掛かりきりだ」という趣旨の手紙を残していて、多忙な時期の仕事ぶりを伝える貴重な記録になっています。評判を呼び、工房から複数の版が生まれました。そのうちスコットランドの城にあった一枚は2003年に盗まれ、4年後に取り戻されるという事件まで経験しています。
モナ・リザ1503年ごろから晩年まで|ルーヴル美術館|油彩・ポプラ板、77×53cm
フィレンツェの商人の妻リザを描いたと伝わります。しかし注文主に渡すことなく、生涯持ち歩いて手を入れつづけました。輪郭線を引かず、煙のようなぼかし(スフマート)で形を作る—ごく薄い絵具を、乾かしては重ねて何十層。科学分析では、一層が髪の毛より薄いこともわかっています。その到達点が、あの微笑です。死後この絵は、10歳で家に来て以来そばにいた弟子サライ—盗み癖は生涯直らず、それでも支出記録には彼のための上等な服の仕立てが並ぶ—の手を経て、フランス王室に渡ったという説があります。ルーヴルにある理由の裏に、その師弟の物語が透けています。
アンギアーリの戦い原画1503〜06年ごろ・失われる|模写で伝わる|原画(壁画)は消失。掲載画像はルーベンスによる模写素描=黒チョーク・ペンとインク・灰と白のハイライト、45.2×63.7cm
フィレンツェ政庁大広間の壁画。同じ広間の反対側の壁はミケランジェロが受け、世紀の競作になるはずでした。ここでも技法の実験が牙をむきます。壁の上で絵具が乾かず、火鉢で炙ると上のほうが流れ落ちたと伝わり、絵は未完のまま残されました。のちに別の画家の壁画で上塗りされましたが、軍旗を奪い合う人馬の激突は、ルーベンスをはじめとする模写で500年語り継がれています。その壁の下に原画がまだ眠っているのではないか—近年、壁の内部を探る調査まで行われました。
聖アンナと聖母子1503年ごろに着手・晩年まで未完成|ルーヴル美術館|油彩・板、168.4×130cm
祖母アンナ、母マリア、幼子—三世代がひとつの流れに重なる構図。三人と子羊をどう組むか、並べ替えつづけた下絵が何枚も残り、練りに練った末の形だとわかります。20年近く手を入れつづけても完成とせず、最後までそばに置いていました。背景の遠くの山なみには、地球そのものへの関心がにじみます。足元の川原の石は、丸まり方まで観察どおり—絵の土台にまで、彼の地質学が流れ込んでいます。
鳥の飛翔に関する手稿1505年ごろ|トリノ王立図書館(イタリア)|手稿・紙(18葉綴じ)、各葉約21×15cm
手のひらに収まる小さな手帳に、鳥が風をつかまえて滑る仕組みを、書いては描き、描いては書いた一冊。若い日は羽ばたく機械に心をひかれ、年を重ねるほど、風に乗って滑ることへ関心が移っていきました。その到達点が、この紙の上にあります。表紙に記されたのは「大いなる鳥は、大白鳥の背から初めての飛翔に発つだろう」。「大白鳥」は、フィレンツェ郊外の山の名とされます。夢の一行に見えて、飛び立つ場所まで決めてあった—計画の言葉です。
レダと白鳥原画1505〜10年ごろ・消失|弟子による彩色模写で伝わる|原画は消失。掲載画像はチェーザレ・ダ・セストに帰属される模写=油彩・板、96.4×73.6cm
うねる髪、渦を巻く草花—水の流れの研究に晩年まで没頭した人の「渦」への執着が、画面の隅々まで及んでいます。ウィンザーには、レダの髪の結い方だけを何枚も試した本人の習作が残り、編み込みの渦が、そのまま水流の素描と響き合います。原画はフランス王家の館で目録に記されたのを最後に、消息を絶ちました。いまは弟子たちの模写だけが、その構図を伝えています。
ラ・スカピリアータ(ほつれ髪の女)1506〜08年ごろ|パルマ国立美術館|油彩(アンバー・鉛白)・ポプラ板、24.7×21cm
顔だけを丹念に仕上げ、髪は奔放な下描きのまま。まぶたと口もとは油彩並みの滑らかさで、その周りを土色の下塗りの線が渦巻いています。完成した作品なのか、下絵なのか、研究者の間でも結論が出ていません。17世紀のマントヴァ公家の財産目録に「ほつれ髪の女」の記録があり、この板を指すとする説があります。未完成こそ美しいという逆説を、一枚で見せてくれます。
バッカス1510〜15年ごろ|工房作とされる|ルーヴル美術館|油彩・クルミ板(カンヴァスに移し替え)、177×115cm
もとは、荒野の洗礼者ヨハネとして描かれました。17世紀末、フランス王室の目録で呼び名が「聖ヨハネ」から「バッカス」に変わり、ちょうどその頃、後世の筆で豹の毛皮と葡萄の冠が描き足されたと考えられています。指し示す身ぶりには、いまも元のヨハネの面影が残ったまま。一枚の絵が別人に作り替えられた、数奇な運命の記録です。レオナルドの構想に基づく工房作とされています。
自画像とされる赤チョークの素描1510〜12年ごろ|トリノ王立図書館|赤チョーク・紙、33.3×21.6cm
長い髭の老人。「レオナルドの顔」として世界に刷り込まれた一枚ですが、本人かどうかは、いまも議論があります。描かれた1510〜12年ごろ、レオナルドは58〜60歳。絵の老人はそれよりはるかに年上に見えるため、父ピエロや叔父フランチェスコを描いたのではないかという説もあります。紙は酸化の染みで傷みやすく、いまは光を落とした保管庫で、ほとんど公開されずに眠っています。素顔の議論が決着しないまま、顔だけが世界でいちばん有名になった—そういう一枚です。
子宮の中の胎児1511年ごろ|英国王室コレクション(ウィンザー城)|ペンとインク・赤チョーク(黒チョークの痕跡・淡彩)・紙、30.4×22cm
解剖素描の最高傑作と呼ばれる一枚。丸くひらいた子宮の中で眠る胎児を、木の実の中の種のように描きました。ただし子宮を包む側の描写には、牛の解剖で得た形が混じっています。人の遺体で確かめきれなかった部分を動物で補った—観察の到達点と限界が、一枚の中に同居しています。余白は、いつもの鏡文字の問いでびっしり埋まっています。人のはじまりを、ここまで正確に、ここまで優しく描いた絵は、当時世界のどこにもありませんでした。
洗礼者ヨハネ1513〜16年ごろ|ルーヴル美術館|油彩・クルミ板、69×57cm
闇の中から微笑んで、天を指さす。最晩年の到達点です。輪郭線は一本もなく、闇との境目は煙のような明暗(スフマート)だけ—背景を真っ暗にしたのは、光がどこまで形を作れるかを試した、最後の実験でした。1517年10月、フランスの居城クルーの館に、枢機卿の一行が老いた彼を訪ねた記録が残っています。仕事場で見せたのは、この絵とモナ・リザ、聖アンナの三枚、それに解剖素描の帖。同行した秘書は素描帖を「この上なく完璧」と書き残し、右手が麻痺していたことも記しています。筆を持つ手が衰えても、この三枚だけは死の間際まで手放しませんでした。
ポンティーノ湿地の地図1514〜15年ごろ|英国王室コレクション(ウィンザー城)|尖筆・黒チョーク・ペンとインク・褐色と赤の淡彩・青の不透明絵具・紙、27.7×40cm
ローマ時代の彼の仕事。1514年、教皇レオ10世が弟ジュリアーノ・デ・メディチに、ローマ南方に広がるマラリアの湿地を干拓せよと命じ、その測量にレオナルドが関わりました。計画は、湿地に二本の水路を掘って海へ流すというもの。水色の川と海、茶色の山なみを描き分けた、彼が色を使った数少ない地図のひとつです。空から見下ろしたようなこの眺めは、飛ぶ手立てのない時代に、地上の測量の数字だけから頭の中で組み立てられました。工事は住民の反発とジュリアーノの死で止まり、この湿地が実際に干上がるのは、およそ400年後のことです。
猫と獅子と竜の習作1517〜18年ごろ|英国王室コレクション(ウィンザー城)|黒チョーク・ペンとインク・淡彩・紙、27×21cm
丸くなる猫、毛づくろいする猫、取っ組み合う猫—1枚の紙に20匹以上。よく見ると、竜が1匹まぎれています。余白には「動きのうねりは猫も竜も同じ」という趣旨の手記。目の前の観察が、そのまま空想の生きものへつながる—彼の頭の中がのぞける紙です。描かれたのは最晩年、右手の麻痺が記録された時期ですが、もともと筆記も素描も左手の人。線は、まったく衰えていません。
大洪水1517〜18年ごろ|英国王室コレクション(ウィンザー城)|ペンと黒インク・淡彩・紙、16.2×20.3cm
最晩年に描き続けた「大洪水」連作のひとつ。渦を巻く水と風が、山も町も呑み込んでいきます。この渦は空想の模様に見えて、水路や川で生涯観察しつづけた、実際の渦の形。手稿には、洪水をどう描くべきかを言葉でも延々と書き残していて、絵と文がひと組の研究になっています。世界の終わりを描いてなお、筆は美しく整っています。最後の最後まで、見ることをやめなかった人の記録です。
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