THE LIFE IN PICTURES

ダ・ヴィンチ紙芝居

学ぶことをやめなかった67年を、一枚ずつ絵でたどる部屋。

— 空を見上げつづけた、67年 —
「大いなる鳥は、大白鳥の背から初めての飛翔に発つだろう—
世界を驚きで満たし、生まれた巣に、永遠の栄光をもたらしながら。」(飛翔研究の手稿より)
絵は次々と移ります。一枚ずつの説明は、この下に並べてあります。
年代の肖像
揺りかごに舞い降りたトビを見上げる赤ん坊のレオナルド
揺りかごのトビ1452年 — いちばん古い記憶 「トビについてこれほど細かく書くのは、私の宿命なのだろう。というのも、いちばん古い幼い日の記憶のなかで、私は揺りかごにいて、一羽のトビが私のところへ降りてきて、その尾で私の口を開き、その尾で幾度も唇の内側を打った。そんな気がするのだ。」五十三歳になった彼が、鳥の飛び方を研究していた紙の余白に、そう書き残している。トビは、ヴィンチ村のあたりに普通にいる鳥だった。
自然の中でスケッチするヴィンチ村の少年
ヴィンチ村の少年1452年 — 少年時代 1452年、トスカーナのヴィンチ村に生まれる。オリーブの丘と流れる川、水車、植物や生き物に囲まれ、目に映るものの形や動きをよく観察し、スケッチして確かめようとする少年だった。自然は、見て、描き、考える最初の学びの場になった。生まれた夜のことは、祖父アントニオが書き留めた。「4月15日、夜の第3時」—日没からおよそ3時間後である。5歳の年の税の記録には、この祖父の家で暮らす孫の名が残っている。
フィレンツェでの修業
フィレンツェでの修業15歳前後 父の仕事の拠点があったフィレンツェへ移る。父がレオナルドの素描を知人のヴェロッキオに見せ、その才能を認められたことから工房入りが決まった。
フィレンツェで彫刻と機械を学ぶ若いレオナルド
工房から学ぶ10代後半 ヴェロッキオ工房では、絵画だけでなく、彫刻、金属加工、建築、機械の仕事までが同じ場所で進んでいた。レオナルドは見習いとして、絵画、素描、彫刻、金属加工、建築や機械の技術を学び始めた。彫像の身体のつくり、建物の比例、職人が扱う道具や仕掛けを見比べ、形がどのように支えられ、動くのかを学んでいった。このころ師ヴェロッキオは、剣を提げて微笑む少年のブロンズ像《ダヴィデ》を鋳ている。その顔のモデルは、工房にいた若き日のレオナルドだったという伝承がある。
工房で絵画制作を学ぶ若いレオナルド
工房で絵画制作を学ぶ10代後半 — 1470年前後 ヴェロッキオ工房では、一枚の絵を複数の職人や弟子が分担して仕上げた。レオナルドも、下絵、絵具の調合、背景、衣服、人物の細部など、制作の各工程を実地で学び、少しずつ重要な部分を任されるようになった。
弟子の衝撃
弟子の衝撃20歳前 師との共作「キリストの洗礼」で、左端の天使を任される。その出来を見た師が筆を折った—そう語り継がれるほどの一枚だった。その天使はいまも画面の左隅にいて、師の筆と同じ一枚の上に並んでいる(現ウフィツィ美術館)。見に行けば、語り継がれた話を自分の目で確かめられる。
画家として登録された若いレオナルド
画家として登録される20歳 — 1472年 フィレンツェの画家組合に登録され、独立して仕事を受けられる立場になる。ヴェロッキオ工房で学びながら、共作だけでなく、自分の名による制作にも進み始めた。翌1473年8月5日、アルノ渓谷の風景をペンとインクで描く。人物のいない、谷と岩と川だけの一枚である。制作日付の確認できる現存最古の作品で、その日付は本人が自分の手で書き込んだ。
《受胎告知》に取り組むレオナルド
《受胎告知》に取り組む20歳ごろ — 1472年ごろ ヴェロッキオ工房にいた若い時期、《受胎告知》を制作する。天使の翼は実際の鳥の翼を観察して描き、夕暮れの光で人物と遠景を一つの空気の中に置いた。建築には一点透視図法を用い、見る位置まで考えて画面を組み立てた。
銀の竪琴
銀の竪琴をつくる30歳 — 1482年 フィレンツェからミラノへ向かう使節の贈り物として、馬の頭部をかたどった銀の竪琴を制作する。画家だけでなく、楽器を作り演奏する才能も認められ、この竪琴を携えて新しい土地へ向かうことになった。※現物は残っておらず、掲載している銀の竪琴は伝承をもとにしたイメージです。
ミラノへ
フィレンツェを離れ、ミラノへ30歳 — 1482年 銀の竪琴を携えてフィレンツェを離れ、ミラノへ移る。宮廷への売り込みの手紙には、戦時に役立つ軽く丈夫で運びやすい橋、要塞を攻略する方法、大砲、坑道、装甲車、軍船などの構想を具体的に列挙した。また、平時には建築、水利、彫刻を手がけられ、絵画でも力を発揮できると記した。

宮廷入り後は、これらの構想についてさらに研究と設計を深めた。この手紙の中で、絵と彫刻の腕前は最後に短く添えられているだけだった。ミラノの暮らしは、ここからおよそ17年続く。
祭壇画に取り組むレオナルド
ミラノで最初の大仕事31歳 — 1483年 ミラノへ移った翌年、祭壇画《岩窟の聖母》の大きな注文を受ける。期限と報酬が決められた仕事だったが、制作と支払いをめぐる交渉は長く続いた。注文されたものをただ仕上げるのではなく、自分の観察と技術をどこまで込められるかを追い続けた。
コラム 8か月の納期、25年の決着1483〜1508年 1483年4月25日、ミラノで祭壇画《岩窟の聖母》の契約が結ばれた。依頼主は無原罪の御宿り信心会。納期は同じ年の12月8日、8か月後である。ところが報酬をめぐる争いが始まり、決着は1508年8月18日、第2版の引き渡しまで、およそ25年かかった。8か月の約束が、四半世紀になったのである。その間に生まれたよく似た二枚は、いまルーヴルとロンドン・ナショナル・ギャラリーに、一枚ずつ掛かっている。
宮廷で女性の肖像を描くレオナルド
宮廷で人を描く37〜38歳 — 1489〜1490年ごろ ミラノの宮廷で、教養ある若い女性の肖像を任される。身分を示すための型どおりの顔ではなく、視線や手の動きに、その人が考え、反応している一瞬を捉えようとした。人間の内面を、身体に現れる小さな変化から見つめた仕事だった。モデルはミラノ公の寵姫チェチリア・ガッレラーニ。真横向きの肖像が主流だった時代に、体をひねって振り向く一瞬を捉え、肖像画の歴史を変えた一枚とされる(現クラクフ・チャルトリスキ美術館)。
宮廷の日々
宮廷の日々30代後半 ミラノ公お抱えとして、宮廷の祝宴の仕掛けから城の改修案まで引き受ける。惑星が動く舞台装置「天国の祭典」を作ったのもこの時期だった。
人体比例を研究するレオナルド
人体を測る38歳ごろ — 1490年ごろ 古代の書物に記された人体の比率を、実際の身体を測って確かめる。文章をそのまま信じるのではなく、自分の目と数値で検証し、円と正方形の中に人体を描いた。描くことを、考えを見える形にして確かめる方法として使った。
知の高み
知の高み40歳を前に このころから手稿の量が一気に増える。解剖、光学、水の流れ、鳥の飛翔—別々に見えるものを、同じ帳面に並べて書きつけていた。現存する最古の手帳「パリ手稿B」は35歳頃のもので、空飛ぶ機械の翼と、理想都市の街路と、教会の図面が、すでに同じ帳面に同居している。37歳では人間の頭蓋骨を手に入れ、切り開いて断面の空洞まで描いた。探していたのは、心や感覚はどこに宿るのかという問いの答えである。
巨大な馬
巨大な馬41歳 高さ7メートルの馬の粘土像を披露し、ミラノ中が息を呑んだ。青銅で鋳るはずだったが、戦のために金属は大砲へ回された。粘土の像はその後、1499年にミラノを占領したフランス兵の矢の的にされ、崩れ去った。7メートルの馬は、ついに青銅にならないまま消えた。
《最後の晩餐》の遠近法を設計するレオナルド
《最後の晩餐》—遠近法の設計43〜46歳 — 1495〜1498年ごろ 壁に釘を打ち、糸を張って、すべての線が一点へ集まるよう仕組んだ。その一点は、キリストのこめかみ。仕掛けを知らなくても、見る人の目は自然にそこへ吸い寄せられる。
壁画とともに
壁画とともに40代半ば 描いては何日も来ず、来たと思えば一日中立ち尽くす。修道院長は苛立ったが、彼は「考えている時間こそ仕事だ」と譲らなかった。
乾いた壁に《最後の晩餐》を描くレオナルド
《最後の晩餐》—乾いた壁への実験43〜46歳 — 1495〜1498年ごろ 湿った漆喰へ素早く描く伝統的なフレスコ技法ではなく、乾いた壁の白い下地にテンペラで描いた。全体を行き来しながら色の層を重ね、細部や光を何度も修正できる方法を選んだためである。しかし絵具は壁と一体化せず、完成後早くから剥落が始まるほど脆い作品になった。
軍事技師として
軍事技師として50歳 — 1502〜1503年ごろ ミラノを離れてフィレンツェへ戻った後、ローマ教皇軍の軍事技師として中部イタリア各地を巡る。城塞や道路、地形を測量し、町を真上から見下ろすような精密な地図を作った。その精度は、当時としては驚くべきものだった。
フィレンツェで《モナ・リザ》に取り組むレオナルド
《モナ・リザ》に取り組む51歳 — 1503年ごろ フィレンツェで、《モナ・リザ》に着手する。モデルは、フィレンツェの商人の妻リザ・ゲラルディーニとする説が有力。輪郭を線で区切らず、薄い色の層を重ねるスフマートによって、目元や口元、肌と空気の境界がわずかに移ろって見える表現を探った。
コラム 壁一枚の競作1503年 1503年、フィレンツェ政庁舎の大会議室。片方の壁の《アンギアーリの戦い》をレオナルドが受注し、向かいの壁の《カッシナの戦い》はミケランジェロが受け持つことになった。同じ部屋で壁一枚ずつ、事実上の競作である。レオナルドは実験的な技法を選んで絵具が定着せず、壁画は未完のまま残され、現存しない。それでも、渦を巻く人馬の構図はルーベンスらの模写で今日に伝わる。壁から消えた絵が、他人の写しだけで語り継がれている。
探求の夜
探求の夜50代 蝋燭の光で、心臓の仕組みを描く。血の流れ、弁の動き—弁が閉じるときに血が渦を巻くというこの図が正しいと確かめられたのは、およそ450年後だった。レオナルドは、生涯で30体を解剖したと自分で書き残している。1507年から08年にかけての冬には、フィレンツェの病院で、安らかに死んだ「百歳の老人」を解剖し、死因を調べた。その記録は、動脈硬化についての最も早い記述の一つとされる。
チェチェリ山で滑空機とともに空を見上げるレオナルド
白鳥の山—空への挑戦1505年 — 53歳 フィレンツェ郊外、フィエーゾレのチェチェリ山—通称「白鳥の山」。『鳥の飛翔に関する手稿』を書き上げた彼は、その表紙にこう記した。「大いなる鳥は、大白鳥の背から初めての飛翔に発つだろう」。実際に飛んだという確かな記録は残っていないが、弟子が滑空を試みたという話が伝わっている。山にはいま、彼の挑戦を記念する碑が立ち、「レオナルドが空を試した山」として旅人に語り継がれている。
《モナ・リザ》を手元に置き、描き続けるレオナルド
《モナ・リザ》を描き続ける晩年まで 《モナ・リザ》を完成品として手放さず、生涯手元に置いた。薄い絵具の層を少しずつ重ね、表情と肌、背景の空気感を長い時間をかけて調整し続け、最後はフランスまで持参した。
フランスの晩年
フランスの晩年64〜67歳 フランス王フランソワ一世に招かれ、アンボワーズの館へ。王は彼を「父」と呼んだ。1517年に館を訪ねた一行は、モナ・リザ、聖アンナ、洗礼者ヨハネの三枚を見せてもらったと書き残している。
長年の研究手稿とともに晩年を過ごすレオナルド
研究とともに迎えた晩年晩年 — フランス 人体、機械、水、飛翔など、生涯にわたって描きためた研究手稿とともに晩年を過ごした。研究は完成した体系として出版されなかったが、観察と考察の膨大な記録は、死後も弟子のもとに残された。
最後のとき
最後のとき67歳 「私は生きることを学んでいると思っていた。だが、死ぬことを学んでいたのだ。」1519年5月2日、フランスの地で、その生涯を閉じる。その9日前の4月23日、遺言書を作っていた。手稿・素描・道具の一式は弟子のメルツィに、ぶどう畑は半分ずつサライと使用人バッティスタに。葬列には、遺言に従って60人の貧者が加わった。

← 玄関へもどる