一人の人間は、67年でどこまで行けるのか。レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯は、トスカーナのヴィンチ村に始まり、フランスのアンボワーズで閉じました。その間に絵を描き、人体を解剖し、空飛ぶ機械を紙の上に組み立てる、思索と創作の旅がつづきます。この資料は、その一年一年をたどる詳細年表です。
作成:2026年8月27日/増補:8月29日。日本語版Wikipedia・英語版Wikipedia・美術館等の解説(末尾の出典一覧)で裏を取って作成しました。
伝承・逸話は「(伝承)」と明記し、年代に諸説あるものは「頃」を付けています。
書式:西暦(年齢)|出来事|一行補足
| 年 | 土地 | そこでしたこと |
|---|---|---|
| 1452〜約1464 | ① ヴィンチ村 | 自然を観察して育つ |
| 約1464〜1482 | ② フィレンツェ | ヴェロッキオ工房で修業し、画家として独立する |
| 1482〜1499 | ③ ミラノ(第一次) | 宮廷で絵画・祝典・建築・騎馬像。最後の晩餐 |
| 1500〜1506 | ④ フィレンツェほか | マントヴァ・ヴェネツィア・ロマーニャを経て帰還。モナ・リザとアンギアーリの戦い |
| 1506〜1513 | ⑤ ミラノ(第二次) | 解剖研究の最盛期。岩窟の聖母第2版 |
| 1513〜1516 | ⑥ ローマ | ヴァチカンで研究中心の日々 |
| 1516〜1519 | ⑦ フランス・アンボワーズ | 国王フランソワ1世に招かれ、最期の3年を過ごす |

| 年(年齢) | 出来事 | 一行補足 |
|---|---|---|
| 1452年4月15日(0歳) | トスカーナ地方ヴィンチ村(またはその近郊)に生まれる | 父はフィレンツェの公証人セル・ピエロ、母は農家の娘カテリーナ。婚外子として生まれた |
| 1452年4月(0歳) | 祖父アントニオが誕生を記録に書き留める | 「4月15日、夜の第3時(日没から約3時間後)」に孫が生まれたと記した |
| 1452年(0歳) | ロレンツォ・ギベルティ《天国の門》が完成する | レオナルドが生まれたこの年、フィレンツェ洗礼堂の金色の扉が完成した。ギベルティが四半世紀あまり(1425年の注文から27年)をかけた大作で、ミケランジェロが「天国の門」と呼んだと伝わる。村の少年がやがて出てゆく都には、この輝きが待っていた |
| 1453年(1歳) | オスマン帝国がコンスタンティノープルを征服し、東ローマ(ビザンティン)帝国が滅びる | レオナルド誕生の翌年、千年の帝都が落ちた。学者たちはギリシャ語の書物を抱えてイタリアへ渡り、古典の知が西方の机によみがえる。ルネサンスの学問を押し上げた大事件である |
| 1457年(5歳) | 父方の祖父アントニオの家で暮らしていることが税の記録に残る | ヴィンチ村で祖父母や若い叔父フランチェスコとともに育った |
| 1450年代〜60年代前半(少年期) | ヴィンチ村の自然の中で育つ | 丘と川、動植物を観察して描く習慣が、のちの研究の出発点になった |
| 1460年代半ば頃(13〜14歳頃) | フィレンツェのアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入る | 父が知人のヴェロッキオに素描を見せて才能を認められたと伝わる(ヴァザーリの伝記による)。入門の年を記す記録はなく、13歳頃からとする資料もある |
| 1460年代後半(10代後半) | 工房で絵画・彫刻・金属加工・建築・機械の仕事を実地で学ぶ | ヴェロッキオ工房は多分野の注文を扱う当時有数の総合工房だった |
| 1469年(17歳) | ロレンツォ・デ・メディチがフィレンツェの実質的な支配者となる | 若きロレンツォが、フィレンツェの手綱を握った。詩を愛し、芸術家を抱え、祝祭で街を沸かせるその羽振りが「豪華王」の名になる。レオナルド十七歳、修業の舞台はこの男の都だった |
| 1470〜75年頃(18〜23歳頃) | 工房の合作《トビアスと天使》が描かれる | 大天使に手を引かれて旅する少年トビアスの物語。トビアスが提げた魚と、足元を駆ける犬を、入門したばかりの若きレオナルドの筆とする説がある(現ロンドン・ナショナル・ギャラリー) |
| 1470年代前半頃(20歳前後) | 師との共作《キリストの洗礼》で左端の天使を担当する | その出来を見たヴェロッキオが以後絵筆を断ったという逸話が残る(伝承)。少年の天使の横顔は、いまも画面の左隅で師の筆と並んでいる(現ウフィツィ美術館) |
| 1472年(20歳) | フィレンツェの画家組合(聖ルカ組合)に登録される | 独立して仕事を受けられる資格を得たが、その後もヴェロッキオ工房との協働を続けた |
| 1470年代前半〜半ば頃(20代前半) | 《受胎告知》を制作する | 一点透視図法と、実際の鳥の翼の観察に基づく天使の翼が特徴(現ウフィツィ美術館)。二十代前半の若さで、横幅2メートルを超える画面をまとめ上げた |
| 1473年8月5日(21歳) | アルノ渓谷の風景をペンとインクで描く | 制作日付が確認できる現存最古の作品。日付は本人がみずから紙に書き込んだもの。人物のいない、谷と岩と川だけの一枚である(現ウフィツィ美術館素描版画室) |
| 1474〜78年頃(20代前半〜半ば) | 《ジネヴラ・デ・ベンチの肖像》を制作する | 現ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵。南北アメリカにある唯一のレオナルドの絵画とされる。暗い茂みを背に白い肌が浮かび上がる、ほぼ正方形の小さな一枚 |
| 1475〜80年頃(23〜28歳頃) | 《カーネーションの聖母》を制作する | 幼子が小さな手を伸ばす先に、赤いカーネーションが一輪。受難を予告する花とされ、微笑む母子の画面でその一輪だけが先の運命を告げている。ドイツで常設展示される唯一のレオナルド絵画(現ミュンヘン・アルテ・ピナコテーク) |
| 1475年頃(23歳頃) | ヴェロッキオがブロンズ像《ダヴィデ》を鋳る | 師ヴェロッキオがブロンズで鋳た、剣を提げて微笑む少年ダヴィデ。その顔は、工房にいた若き日のレオナルドがモデルだったとの伝承がある。1476年以前の作、フィレンツェのバルジェッロ国立美術館 |
| 1476年4月9日(23歳) | 匿名の告発を受ける | 若者ヤコポ・サルタレッリをめぐる件で、他の青年3名とともに訴えられた |
| 1476年6月(24歳) | 証拠不十分で放免される | 再度の審理でも訴えは退けられ、処罰は受けなかった |
| 1478年1月(25歳) | ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画を受注する | 記録に残る最初の独立した公的受注。完成には至らなかった |
| 1478年4月(26歳) | パッツィ家の陰謀。大聖堂のミサの最中にジュリアーノ・デ・メディチが暗殺される | ミサの最中、大聖堂の祈りのただなかで刃が閃いた。ジュリアーノ・デ・メディチは倒れ、兄ロレンツォは生き延びる。企てたパッツィ側は捕らえられ、次々と処刑台へ送られた |
| 1478年頃(26歳頃) | ヴェロッキオ工房を離れ、独立した画家として歩み始める | 《ブノワの聖母》もこの頃の作とされる(現エルミタージュ美術館)。幼子が母の手の花をつかもうとする、笑いのこぼれる聖母子である。同じ頃に手がけたとされる《猫の聖母子》は現存せず、猫を抱く幼子の習作素描が残るのみである |
| 1479年12月(27歳) | 陰謀の実行犯バロンチェッリの処刑された姿をスケッチする | 絞首台に吊るされた男を、レオナルドは目を逸らさず写生した。相手はパッツィ事件の実行犯バロンチェッリ、逃亡先コンスタンティノープルで捕らえられた男である。素描の脇には、着ていた服の色までひとつずつ記されていた(素描は現フランス・ボナ美術館) |
| 1480年頃(28歳頃) | 《荒野の聖ヒエロニムス》に着手する | 荒野で欲望を抑えるため、石でおのれの胸を打つ聖人。足元には、とげを抜いてやって以来そばを離れなかったと伝わるライオンが伏せる。未完だが、首や肩の筋まで正確に描かれている(現ヴァチカン美術館) |
| 1480年頃(28歳頃) | ボッティチェリが《春(プリマヴェーラ)》を描く | 花咲く草原に神々と三美神が舞う。描いたボッティチェリは、同じヴェロッキオ工房で学んだ先輩格である。豪華王の都が生んだ、もうひとつの華(現ウフィツィ美術館) |
| 1481年3月(28歳) | サン・ドナート・ア・スコペート修道院から《東方三博士の礼拝》を受注する | 翌年のミラノ行きで中断し、未完に終わった(現ウフィツィ美術館)。2メートル半四方の大画面が、下描きの茶色のまま残る |
| 年(年齢) | 出来事 | 一行補足 |
|---|---|---|
| 1482年(30歳) | フィレンツェを離れ、ミラノへ移る | 馬の頭部をかたどった銀の弦楽器を携えて行ったと伝わる。以後約17年をミラノで過ごす |
| 1482年頃(30歳) | ミラノの実力者ルドヴィーコ・スフォルツァに売り込みの手紙を書く | 持ち運べる橋・攻城法・大砲・装甲車・軍船など軍事技術を列挙し、絵画と彫刻ができることは最後に短く添えた |
| 1483年4月25日(31歳) | 祭壇画《岩窟の聖母》の契約を結ぶ | 依頼主は無原罪の御宿り信心会。納期は同年12月8日と定められていた |
| 1483〜86年頃(31〜34歳頃) | 《岩窟の聖母》第1版を制作する | 現ルーヴル美術館所蔵。報酬をめぐる争いはここから約25年続くことになる。暗い岩屋の中、人物たちは指先だけで語り合うように配されている |
| 1483〜87年頃(31〜35歳頃) | 《音楽家の肖像》を制作する | 楽譜を手にした若者が、光のほうへ目を上げる。数ある肖像のうち、男性を描いて現存するのはこの一枚だけである(現ミラノ・アンブロジアーナ絵画館) |
| 1480年代後半(30代半ば) | スフォルツァ家の巨大騎馬像の計画に取り組む | 初代ミラノ公フランチェスコを記念する、高さ7メートルを超える青銅像の構想だった |
| 1487年(35歳) | ミラノ大聖堂の中央の塔(ティブリオ)の設計案に取り組む | ミラノ大聖堂の中央塔ティブリオをめぐり、木の模型まで作って設計案を出した。三十代の画家が、都市の誇る大聖堂の屋根に腕を伸ばしたのである。案は採用されず、のちに自ら取り下げた |
| 1487年頃(35歳頃) | 現存する最も古い手帳「パリ手稿B」を書き始める | 現存する手帳のうち、最古の一冊がこれである。開けば、空飛ぶ機械の翼と、理想都市の街路と、教会建築の図面が同じ帳面に同居している。生涯つづく「書きながら考える」習慣の、確認できる出発点。現在はフランス学士院にある |
| 1489年(37歳) | 人間の頭蓋骨を手に入れ、切り開いて内側の構造を素描する | 手に入れた人間の頭蓋骨を切り開き、断面の空洞まで克明に描いた。探していたのは、心や感覚はどこに宿るのかという問いの答えである。本格的な解剖研究がこの一枚から始まる。紙にペンと茶色のインク、18.3×13センチ、ウィンザー王室コレクション |
![]() 頭蓋骨の断面(1489年)— 解剖手稿より | ||
| 1489〜91年頃(37歳頃) | 《白貂を抱く貴婦人》を制作する | モデルはルドヴィーコの寵姫チェチリア・ガッレラーニ(現クラクフ・チャルトリスキ美術館)。真横向きが主流だった時代に、体をひねって振り向く一瞬を捉え、肖像画の歴史を変えた1枚とされる |
| 1490年頃(38歳頃) | 宮廷の祝典で舞台仕掛け「天国の祭典」を演出する | 惑星が動く舞台装置で祝宴を飾ったと記録される。舞台はジャン・ガレアッツォ・スフォルツァとナポリ王女イザベラ・ダラゴーナの婚礼祝典。画家は宮廷の夜を演出する仕事も担っていた |
| 1490年頃(38歳頃) | 素描《ウィトルウィウス的人体図》を描く | 古代の建築書に記された人体比例を、実測で検証して図にした(現ヴェネツィア・アカデミア美術館)。円と正方形のなかで両手両足を広げる男の図として、世界中で知られる |
| 1490年(38歳) | 10歳の少年ジャン・ジャコモ・カプロッティが住み込みで家に入る | 手癖の悪さから「サライ(小悪魔)」と呼ばれたが、生涯そばに置いた |
| 1490年頃(38歳頃) | 《リッタの聖母》が描かれる | 乳を含んだまま、幼子の目はこちらを向いている。左右の窓の外には遠い山並み。弟子ボルトラッフィオの筆が入っているとの見方が強い一枚である(現エルミタージュ美術館) |
| 1491年1月(38歳) | ルドヴィーコとベアトリーチェ・デステの婚礼の祝典を演出する | 主君ルドヴィーコ・イル・モーロが、ベアトリーチェ・デステを妃に迎えた。この婚礼の祝典を演出したのがレオナルドである。宮廷画家の仕事には、晴れの日の舞台づくりまで含まれていた |
| 1490年代前半(40歳前後) | 手稿の量が大きく増える | 解剖・光学・水の流れ・鳥の飛翔などを同じ帳面に並行して書き続けた |
| 1490年代(38〜45歳頃) | 《ラ・ベル・フェロニエール》を制作する | 画中の欄干越しに、婦人が強いまなざしをこちらへ向ける。ミラノ宮廷の女性を描いたことは分かっているのに、その名は今日まで特定されていない(現ルーヴル美術館) |
| 1492年(40歳) | ロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)が死去する | フィレンツェの黄金期を支えた豪華王が世を去り、同じ年、コロンブスの船が大西洋の向こうの陸に着いた。芸術の都の一時代が閉じ、世界の地図が広がり始めた年である。同じ年、のちにレオナルドが仕えるチェーザレの父にあたる、ボルジア家の教皇アレクサンデル6世が即位した |
| 1493年11月(41歳) | 騎馬像の実物大粘土模型を公開する | スフォルツァ家の婚礼の祝賀に合わせて披露された。花嫁はミラノ公の妹ビアンカ・マリア・スフォルツァ、迎えたのは神聖ローマ皇帝マクシミリアンである |
| 1493〜95年(41〜43歳) | 納税記録の扶養家族に「カテリーナ」の名が載る | この女性は1495年に死去。生母カテリーナと考えられている |
| 1494年秋(42歳) | フランス王シャルル8世がイタリアへ進軍する | フランス王シャルル8世の大軍がアルプスを越えた。フィレンツェではメディチ家が追われ、修道士サヴォナローラの神権政治が始まる。イタリアが戦場になる時代の幕開けだった |
| 1494年11月(42歳) | 騎馬像用の青銅が大砲の材料に転用される | フランス軍の侵攻に備えるためで、鋳造の望みは絶たれた |
| 1495年頃(43歳頃) | サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂で《最後の晩餐》に着手する | 湿った漆喰に描く伝統的フレスコではなく、乾いた壁に描く実験的な技法を選んだ。画面では十二使徒がそれぞれ違う身振りで心の内を見せる。「人物は、考えていることが身振りに表れるように描く」という絵画論の考えの実りである |
| 1495〜1500年頃(43〜48歳頃) | 素描《老人と若者の頭部》を描く | 鷲鼻の老人と巻き毛の若者が、間近に向かい合う。若者は、生涯そばに置いた弟子サライがモデルとの説がある。老いと若さをひとつの紙の上で見比べる、レオナルド好みの構図である(現ウフィツィ美術館素描版画室) |
| 1496年(44歳) | 数学者ルカ・パチョーリがミラノに来る | レオナルドは幾何学を学び、パチョーリの著書のために図版を描いた |
| 1490年代半ば頃(40代半ば) | 《ラ・ベッラ・プリンチペッサ》とされる横顔の肖像が描かれる | 結い上げた髪の若い女性が、横顔で描かれている。ルドヴィーコの娘ビアンカ・スフォルツァの肖像とする説があり、レオナルド作かどうかは専門家の間で大きく議論が割れたままである(個人蔵) |
| 1498年2月(45歳) | パチョーリの『神聖比例論』の本文が完成する | レオナルドの多面体図版を収め、1509年に出版された。生前に図版が出版された唯一の書物 |
| 1498年(46歳) | スフォルツァ城の広間「サーラ・デッレ・アッセ」の天井装飾を手がける | 広間の天井を見上げると、16本の桑の木が枝を絡ませ、頭上いっぱいがひとつの森になる。桑(モーロ)は主君ルドヴィーコ・イル・モーロの通称にちなむ、主君をたたえる仕掛けである。現存し、修復を重ねて今日に伝わる(ミラノ・スフォルツァ城) |
| 1498年5月(46歳) | サヴォナローラが火刑に処される | 熱狂は長くつづかなかった。街を支配した修道士サヴォナローラは火刑に処され、神権政治は4年足らずで幕を閉じた |
| 1498年(46歳) | 《最後の晩餐》が完成する | 約460×880センチの大壁画。絵具が壁に定着せず、完成後早くから傷み始めた |
| 1499年秋(47歳) | フランス軍がミラノを占領し、ルドヴィーコが失脚する | 第二次イタリア戦争。粘土の騎馬像はのちにフランス兵の矢の的にされ、崩れ去った |
| 1499年12月頃(47歳) | サライ、パチョーリらとともにミラノを離れる | 約17年間の第一次ミラノ時代が終わった |
コラム 「小悪魔」と呼ばれた家族
1490年、10歳の少年ジャン・ジャコモが住み込みで家に入った。手癖が悪く、「サライ(小悪魔)」と呼ばれた。だがレオナルドは、この悪童を手放さなかった。ミラノを追われた1499年の旅にも、1513年のローマ行きにも、サライの名がある。素描《老人と若者の頭部》の巻き毛の若者は、サライがモデルとの説がある。そして1519年の遺言書で、レオナルドはぶどう畑の半分をサライに遺した。10歳の小悪魔は、30年近くのちに、遺言に名を書かれる家族になっていた。
| 年(年齢) | 出来事 | 一行補足 |
|---|---|---|
| 1500年初め頃(47歳) | マントヴァに滞在する | 侯妃イザベラ・デステの肖像素描を描いた(現ルーヴル美術館) |
| 1500年春頃(47〜48歳) | ヴェネツィアに滞在する | 軍事技術者として、海からの攻撃に備える防衛策を助言した |
| 1500年4月頃(48歳) | フィレンツェへ帰還する | サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院に一行の滞在先を得た |
| 1499〜1500年頃(47〜48歳頃) | 《聖アンナと聖母子と幼子聖ヨハネ》の大型素描(カルトン)を制作する | 現ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵。制作年代には諸説ある。大画面いっぱいに、聖アンナの膝の聖母と幼子、寄り添う幼い聖ヨハネが描かれる |
| 1500年頃(48歳頃) | 《サルバトール・ムンディ》が描かれる | 右手で祝福を与え、左手に透きとおる球を載せたキリスト。2017年、絵画史上最高額の約4億5千万ドルで落札され、世界を騒がせた。レオナルド本人の筆かどうかは、いまも議論が続く(個人蔵) |
| 1501年頃(49歳頃) | 《糸巻きの聖母》を制作する | 幼子が母の糸巻き棒をつかんで離さない。その棒は十字架の形をしており、あどけない場面に先の受難が予告されている。制作中と修道士の手紙に記録された作品で、よく似た2枚が現存し、どちらもレオナルドと工房の共作とみられる(1枚は現エディンバラのスコットランド国立美術館に長期展示・もう1枚は個人蔵) |
| 1502年(50歳) | チェーザレ・ボルジアに軍事技師として仕える | 教皇アレクサンデル6世の子で教皇軍総司令官。ロマーニャ地方の城塞や地形を調査して回った |
| 1502年(50歳) | イーモラの精密な都市図を作る | 町を真上から見下ろす方式の地図で、当時としては画期的な正確さだった |
| 1503年(51歳) | ボルジアのもとを離れ、フィレンツェに戻る | ピサとの戦争をめぐるアルノ川の流路変更の構想にも関わった |
| 1503年10月18日(51歳) | フィレンツェの聖ルカ組合に再登録する | 画家としての活動を正式に再開した |
| 1503年頃(51歳) | 《モナ・リザ》に着手する | モデルは商人の妻リザ・デル・ジョコンドとする説が有力。以後、晩年まで手を入れ続けた。一人の肖像を超えて、人間と自然そのものを描いた絵として読まれてきた(現ルーヴル美術館) |
| 1503〜10年頃(51〜58歳頃) | 《レダと白鳥》に取り組む | 立つレダに白鳥が寄り添い、足元で双子が卵から生まれる構図。原画は失われ、チェーザレ・ダ・セストらの模写で今日に伝わる(ギャラリー掲載の一枚はウィルトン・ハウス蔵の模写) |
| 1503〜04年(51〜52歳) | 政庁舎大会議室の壁画《アンギアーリの戦い》を受注する | 向かいの壁はミケランジェロが《カッシナの戦い》を担当することになり、事実上の競作となった |
| 1504年1月(51歳) | ミケランジェロの《ダヴィデ像》の設置場所を決める委員会に加わる | フィレンツェの主だった芸術家が集められた |
| 1504年7月9日(52歳) | 父セル・ピエロが死去する | レオナルドは手稿に日付と時刻を繰り返し書き留めた。遺産をめぐり異母弟たちとの争いが始まる |
| 1505年4月頃(53歳) | 『鳥の飛翔に関する手稿』をまとめる | 「大いなる鳥は大白鳥の背から初めての飛翔に発つだろう」の一節を含む(現トリノ王立図書館) |
| 1505年頃(53歳) | フィエーゾレのチェチェリ山(白鳥の山)で飛行実験を試みたという話が伝わる(伝承) | 実際に飛んだという確かな記録はない |
| 1505年頃(53歳) | 幼い日にトビが揺りかごに降りてきたという記憶を手稿に書き留める | 鳥の飛翔を研究する紙面の余白に記された有名な一節 |
| 1505年(53歳) | 《アンギアーリの戦い》の壁面への彩色で技法の不具合に直面する | 実験的な技法のため絵具が定着せず、下部しか残らなかったと伝わる |
| 1506年(54歳) | ミラノのフランス人総督シャルル・ダンボワーズに招かれ、ミラノへ向かう | 《アンギアーリの戦い》は未完のまま残された。壁画そのものは現存しない。渦を巻く人馬の構図は、ルーベンスらの模写によって今日に伝わる |
| 年(年齢) | 出来事 | 一行補足 |
|---|---|---|
| 1506〜08年頃(54〜56歳頃) | 《ラ・スカピリアータ(乱れ髪の女性)》を描く | ほどけた髪のまま、女性がまぶたを伏せてうつむく。描かれているのは頭部だけ、使われた色は茶と白のみ。それでも見る者の目は、髪の渦とその表情から離れられなくなる(現パルマ国立美術館) |
| 1507年(55歳) | フランス王ルイ12世付きの画家・技師となる | 以後はフィレンツェとミラノを行き来する生活が続いた |
| 1507年頃(55歳頃) | ロンバルディア貴族の子フランチェスコ・メルツィが弟子入りする | 最も信頼された弟子として、最期まで付き従った |
| 1507年(55歳) | 叔父フランチェスコの遺産をめぐる係争のためフィレンツェに滞在する | 異母弟たちとの裁判は数年に及んだ |
| 1507〜08年冬(55歳) | 「百歳の老人」を解剖する | フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院で、安らかに死んだ老人の死因を調べた。動脈硬化の最初期の記述の一つとされる |
| 1508年8月18日(56歳) | 《岩窟の聖母》第2版を引き渡す | 約25年に及んだ報酬争いがようやく決着した(第2版は現ロンドン・ナショナル・ギャラリー)。第1版とほぼ同じ構図で描かれている |
| 1508年頃(56歳) | ミラノに本拠を移す | 解剖・水流・光学・幾何学など、研究が最も充実した時期に入る |
| 1508〜13年頃(56〜61歳頃) | 解剖研究の第2期が続く | レオナルドは生涯で30体を解剖したと自ら記している |
| 1509〜11年頃(57歳頃) | ラファエロがヴァチカンに《アテネの学堂》を描く | 一世代下のラファエロが、ヴァチカンの間に古今の賢者を一堂に描いた。中央で天を指すプラトンの顔は、レオナルドがモデルとも言われる |
| 1510〜11年(58〜59歳頃) | パヴィア大学の解剖学者マルカントニオ・デッラ・トッレと共同研究を行う | 筋肉や骨格の精密な素描を多数残した。この頃、関心は体を機械として理解することから、生きて働く体、すなわち生命そのものの探求へ深まっていく。この時期の素描は『解剖手稿A』(1510〜11)として一冊にまとめられている |
| 1511年頃(59歳頃) | 子宮内の胎児の素描を描く | 胎児の正しい姿勢を描いた最初期の図とされる(現ウィンザー王室コレクション) |
| 1510〜13年頃(58〜61歳頃) | 心臓の研究を深める | 大動脈弁の近くで血流が渦を巻いて弁を閉じるという観察は、20世紀になって正しさが確認された |
| 1510〜15年頃(58〜63歳頃) | 工房で《バッカス》が描かれる | もとは荒野の洗礼者ヨハネとして描かれた絵である。後世の手が豹の皮とぶどうの冠を描き足し、聖者は酒の神バッカスに姿を変えられた。レオナルドの構想に基づく工房作(メルツィらの筆)とされる(現ルーヴル美術館) |
| 1503〜19年頃(51歳〜晩年) | 板絵《聖アンナと聖母子》に取り組み続ける | 完成とせず晩年まで手を入れた(現ルーヴル美術館)。母の膝に娘が座り、その腕から幼子が子羊へ手を伸ばす、三世代を重ねた構図である |
| 1512年頃(60歳頃) | 赤チョークで老人の顔を描く(トリノの「自画像」) | 長い髭を垂らした老人が、深い皺の奥からじっと前を見る。世界中の本や画面で「レオナルドの顔」として流通してきたのが、この一枚である。自画像かどうかには、いまも異論がある(現トリノ王立図書館) |
| 1512年(60歳) | ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画が完成する | かつて政庁舎の壁で競ったミケランジェロが、システィーナ礼拝堂の天井画を完成させた(1508〜12)。見上げる天井いっぱいに、天地創造からの物語が広がる大作である |
| 1512年(60歳) | メディチ家がフィレンツェに帰還する | 追放から18年、メディチ家がフィレンツェに戻った。翌1513年には一族のジョヴァンニが教皇レオ10世に即位する。この教皇の弟が、ローマ時代のレオナルドの庇護者になる |
| 1512年(60歳) | ミラノのフランス支配が崩れる | スフォルツァ家の復帰でレオナルドは後ろ盾を失った |
| 年(年齢) | 出来事 | 一行補足 |
|---|---|---|
| 1513年9月24日(61歳) | ミラノを発ちローマへ向かう | 手稿に「メルツィ、サライらとともにミラノからローマへ発った」と自ら日付を記した |
| 1513〜16年(61〜64歳) | ヴァチカンのベルヴェデーレに住む | 新教皇レオ10世の弟ジュリアーノ・デ・メディチの庇護を受けた |
| 1513〜16年頃(ローマ時代) | 凹面鏡(火取り鏡)の研究などに取り組む | 大きな絵画の注文はほとんどなかった |
| 1513〜15年頃(ローマ時代) | サント・スピリト病院での人体解剖が禁じられる | 同居していたドイツ人鏡職人の讒言により教皇庁の不興を買ったと伝わる |
| 1514〜15年頃(62〜63歳頃) | ポンティーノ湿地の干拓計画のための地図を描く | ローマの南に広がる湿地を乾かす計画のため、空から見下ろす形で水路と土地を描いた。庇護者ジュリアーノ・デ・メディチが任された事業とされる(現ウィンザー王室コレクション) |
| 1513〜16年頃(61〜64歳頃) | 《洗礼者聖ヨハネ》を制作する | 最後の板絵の一つとされる(現ルーヴル美術館)。闇の中から微笑み、指を天に向ける。モナ・リザ、聖アンナとともにフランスまで携え、死ぬまで手元に置いた |
| 1515年(63歳) | フランス新王フランソワ1世がマリニャーノの戦いに勝ち、ミラノを奪回する | 同年末、ボローニャで行われた王と教皇レオ10世の会談にレオナルドも同席したとされる |
| 1515年頃(63歳) | 機械仕掛けのライオンを作ったと伝わる | 歩いて止まり、胸が開いて百合の花がこぼれる仕掛けだったという(記録は後代の伝聞を含む) |
| 1516年3月(63歳) | 庇護者ジュリアーノ・デ・メディチが死去する | イタリア国内での拠り所を失った |
| 年(年齢) | 出来事 | 一行補足 |
|---|---|---|
| 1516年(64歳) | フランソワ1世に招かれ、フランスへ移る | アルプスを越え、手稿と《モナ・リザ》などの絵を携えて行った。イタリアには二度と戻らなかった |
| 1516年(64歳) | アンボワーズ城近くのクルーの館(現クロ・リュセ)を与えられる | 「王の第一画家・建築家・技師」の称号と、総額1万スクードの年金を受けた |
| 1517年1月(64歳) | ロモランタンの新宮殿・運河計画に取り組む | 王のための新都市構想。運河・庭園・水車まで含む計画だったが、実現しなかった |
| 1517年10月10日(65歳) | アラゴン枢機卿の一行がクルーの館を訪れる | 秘書アントニオ・デ・ベアティスが記録を残す。婦人の肖像(モナ・リザとみられる)・聖アンナ・洗礼者ヨハネの3枚の絵を見せた |
| 1517年10月(65歳) | 右手が麻痺していたことが同じ訪問記録に書かれている | 晩年は素描と設計、弟子への指導が仕事の中心になった |
| 1517年10月(65歳) | ルターが「95か条の論題」を出し、宗教改革が始まる | ドイツでルターが「95か条の論題」を突きつけ、宗教改革が始まった。ルネサンスの次の時代を決める火が、アルプスの北で点いたのである |
| 1517〜18年頃(65〜66歳頃) | 素描《猫と獅子と竜の習作》を描く | 一枚の紙に、眠る猫、毛づくろいする猫、身構える獅子、そして小さな竜まで描き込んだ。晩年まで衰えない観察の目と遊び心が並んでいる(現ウィンザー王室コレクション) |
| 1517〜18年頃(65〜66歳頃) | 連作素描「大洪水」を描く | 渦巻く水と嵐を描いた晩年の代表的な素描群(現ウィンザー王室コレクション) |
| 1518年6月(66歳) | クルーの館で『イル・パラディーゾ(天国の祭典)』を再演する | クルーの館で祝宴が開かれ、1490年の『イル・パラディーゾ(天国の祭典)』が再演された。星や惑星が動く天空の舞台仕掛けを、28年ぶりにフランスの夜へ甦らせたのである。フランソワ1世への感謝の宴で、教皇レオ10世の甥ロレンツォとフランス王家縁者マドレーヌの婚礼の祝いも重なる時期だった |
| 1519年4月23日(67歳) | 遺言書を作成する | 手稿・素描・道具一式をメルツィに、ぶどう畑の半分ずつをサライと使用人バッティスタに遺すと定めた |
| 1519年5月2日(67歳) | クルーの館で死去する | 死因は脳卒中と伝えられる。「フランソワ1世の腕の中で息を引き取った」というヴァザーリの逸話は伝承とみられている(伝承) |
| 1519年8月12日 | アンボワーズ城のサン・フロランタン教会に埋葬される | 遺言に従い、60人の貧者が葬列に加わった |
| 1519年9月 | マゼランの船団が世界一周の航海に出る | レオナルドの死の4か月後、マゼランの船団が世界一周の航海に出た。地球をまるごと確かめる時代が、入れ替わるように始まる |
コラム 客人が見た晩年の仕事場
1517年10月10日、アラゴン枢機卿の一行がフランスのクルーの館を訪ねた。記録係は秘書アントニオ・デ・ベアティス。65歳のレオナルドは、客に三枚の絵を見せた。婦人の肖像、聖アンナ、洗礼者ヨハネ。同じ記録には、右手が麻痺していたことも書かれている。筆を握る手はもう思うようにならず、仕事の中心は素描と設計、弟子への指導に移っていた。それでも三枚の絵は手放さず、死ぬまで手元に置いた。
コラム 二十八年後の再演
1490年頃、ミラノの宮廷。婚礼の夜を、惑星が動く舞台仕掛け「天国の祭典」が飾った。演出したのは、38歳の宮廷画家レオナルドである。それから28年たった1518年6月、フランスのクルーの館で、この舞台がもう一度上演された。フランソワ1世への感謝の宴である。66歳になった演出家の手で、若い日にミラノの夜を回した星々が、こんどはフランスの夜を回った。
| 年(年齢) | 出来事 | 一行補足 |
|---|---|---|
| 1519年以降 | メルツィが手稿・素描を相続し、イタリアへ持ち帰る | ミラノ近郊ヴァプリオ・ダッダの自邸で終生保管し、絵画に関する記述をまとめる作業も進めた(のちの『絵画論』) |
| 1570年頃 | メルツィの死後、手稿の散逸が始まる | 相続した息子が価値を理解せず、持ち出しや売却が相次いだ。現在は『アトランティコ手稿』ほか各地の図書館・コレクションに分蔵されている |
| 1806〜10年 | 埋葬先のサン・フロランタン教会が取り壊される | フランス革命後の荒廃により失われた |
| 1863年 | 教会跡の発掘で、レオナルドのものとみられる遺骨が見つかる | のちにアンボワーズ城内のサン・チュベール礼拝堂に移され、現在の墓所となっている(遺骨の同定は推定) |
| 間柄 | 人 |
|---|---|
| 師匠 | ヴェロッキオ(フィレンツェの総合工房の主) |
| 同門・芸術家仲間 | ボッティチェリ、ペルジーノ(同じ工房で学んだ) |
| ライバル | ミケランジェロ(アンギアーリの戦いで事実上の競作) |
| 学者の友人 | ルカ・パチョーリ(数学)、マルカントニオ・デッラ・トッレ(解剖) |
| パトロン・雇い主 | ロレンツォ・デ・メディチ、ルドヴィーコ・スフォルツァ、チェーザレ・ボルジア、ジュリアーノ・デ・メディチ、フランソワ1世 |
| 弟子・家族同然 | サライ(10歳で住み込み)、フランチェスコ・メルツィ(手稿を守った後継者) |