TIMELINE

ダ・ヴィンチ年表

少年から最晩年まで——学ぶことをやめなかった67年を、肖像でたどる部屋。

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THE LIFE

彼の生涯——年代の肖像

年代の肖像
自然の中でスケッチするヴィンチ村の少年
ヴィンチ村の少年0〜17歳 — 1452〜1469年 オリーブの丘と、流れる川。目に映ったものを、確かめずにいられない子どもだった。手帳と鉛筆さえあれば一日が足りない——彼の学校は、はじめから外にあった。

1452年4月15日、レオナルドはヴィンチ近郊のアンキアーノで、公証人セル・ピエロとカテリーナの婚外子として生まれた。父方の家族と過ごしたヴィンチには、多くの水車が動き、谷を水が巡っていた。幼いころに見つめた水の流れ、鳥の翼、岩や植物への関心は、のちの水理学、飛行研究、地質学、そして絵画の風景へとつながっていく。自然は、レオナルドにとって最初の、そして生涯変わらない教師だった。
工房への道
ヴェロッキオ工房へ17歳ごろ — 1469年 父とともにフィレンツェへ移り、画家・彫刻家アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に入る。そこは絵画だけを学ぶ場所ではなかった。素描、彩色、彫刻、金属加工、建築や機械の技術まで、多くの職人が共同で仕事をする総合工房だった。自然を見つめて育った少年は、ここで観察したものを形にする技術を身につけていく。
弟子の衝撃
弟子の衝撃20歳前 師との共作「キリストの洗礼」で、左端の天使を任される。その出来を見た師が筆を折った——そう語り継がれるほどの一枚だった。
若き画家
若き画家20歳のころ 「受胎告知」に取り組む。天使の翼は、本物の鳥を観察して描いた。羽根を濃く描き込んだ付け根までが彼の筆で、その先の薄い部分は後の時代の誰かによる継ぎ足し。今も色の違いで見分けられる。
考えて、描く
考えて、描く20代 「ジネーヴラ・デ・ベンチ」の肖像を手がける。背後に茂る杜松——イタリア語でジネプロ——は、彼女の名にかけた仕掛けだった。
銀の竪琴
銀の竪琴30歳ごろ ミラノ公への贈り物として選ばれたのが、この竪琴だった。馬の頭蓋骨をかたどった銀の楽器で、彼はその場で弾き、即興でうたい、宮廷付きの楽師たちを黙らせたと伝わる。
ミラノへ
ミラノへ30歳 竪琴を携え、花の都を後にする。売り込みの手紙にはこう書いた——私は橋を架けられる、機械を作れる、そして絵も描ける、と。
岩窟の聖母
岩窟の聖母30代前半 ミラノに移って最初の大きな注文。洞窟の岩肌、遠くの霞、水と光。地質も植物も、自分の目で確かめてから描いた。宗教画でありながら、これは自然の観察記録でもある。
岩窟の聖母に取り組むレオナルド
祭壇画の注文31歳 — 1483年4月25日 ミラノの無原罪懐胎信心会から、サン・フランチェスコ・グランデ聖堂の祭壇画を正式に受注する。完成期限と報酬をめぐる争いは長く続き、のちに『岩窟の聖母』が二つの版で残ることにつながった。
白貂を抱く貴婦人
白貂を抱く貴婦人30代後半 描かれたのはチェチリア・ガッレラーニ、ミラノ公が愛した16歳ほどの女性。腕の白貂は清らかさの象徴であり、白貂の騎士団に属した公その人の徽章でもあった。
白貂を抱く貴婦人に取り組むレオナルド
宮廷の才女を描く37〜38歳 — 1489〜1490年頃 ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの宮廷で、詩と教養で知られたチェチリア・ガッレラーニの肖像を制作する。公は1488年に白貂騎士団の勲章を受けており、白貂はモデルと注文主の関係を暗示する印にもなった。
工房の日々
工房の日々30代後半 ミラノ公お抱えとして、宮廷の祝宴の仕掛けから城の改修案まで引き受ける。惑星が動く舞台装置「天国の祭典」を作ったのもこの時期だった。
円と正方形
円と正方形38歳 古代ローマの建築家ウィトルウィウスの記述をもとに、体の比を図に起こす。両手足を広げた姿が円と正方形の両方に収まる——文章では語られていたが、誰も正しく描けずにいた図だった。
人体比例を研究するレオナルド
人体を測る38歳ごろ — 1490年頃 古代建築家ウィトルウィウスの『建築論』を読み、理想的な人体比例を実際の観察と測定で確かめる。古典の文章をそのまま図解するのではなく、自分の目と数値で検証した結果が「ウィトルウィウス的人体図」となった。
知の高み
知の高み40歳を前に このころから手稿の量が一気に増える。解剖、光学、水の流れ、鳥の飛翔——別々に見えるものを、同じ帳面に並べて書きつけていた。
巨大な馬
巨大な馬41歳 高さ7メートルの馬の粘土像を披露し、ミラノ中が息を呑んだ。青銅で鋳るはずだったが、戦のために金属は大砲へ回された。
最後の晩餐
最後の晩餐43〜46歳 壁に釘を打ち、糸を張って、すべての線が一点へ集まるよう仕組んだ。その一点は、キリストの額。仕掛けを知らなくても、見る人の目は自然にそこへ吸い寄せられる。
最後の晩餐に取り組むレオナルド
「魂の動き」を壁に刻む42〜46歳 — 1494〜1498年 ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの注文で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂壁面に取り組む。乾いた漆喰へ描く方法を選び、使徒たちの驚き、怒り、恐れを、表情と身振りによる「魂の動き」として描き分けた。
壁画とともに
壁画とともに40代半ば 描いては何日も来ず、来たと思えば一日中立ち尽くす。修道院長は苛立ったが、彼は「考えている時間こそ仕事だ」と譲らなかった。
軍事技師として
軍事技師として50歳ごろ チェーザレ・ボルジアに軍事技師として仕え、各地の城塞を調べて回る。イーモラの町を真上から見下ろしたように描いた地図は、当時としては驚くべきものだった。
探求の夜
探求の夜50代 蝋燭の光で、心臓の仕組みを描く。血の流れ、弁の動き——400年後にようやく正しさが証明された図もある。「涙は、脳からではなく、心臓から来る。」
フランスの晩年
フランスの晩年64〜67歳 フランス王フランソワ一世に招かれ、アンボワーズの館へ。王は彼を「父」と呼んだ。1517年に館を訪ねた一行は、モナ・リザ、聖アンナ、洗礼者ヨハネの三枚を見せてもらったと書き残している。
最後のとき
最後のとき67歳 「私は生きることを学んでいると思っていた。だが、死ぬことを学んでいたのだ。」1519年5月2日、フランスの地で、その生涯を閉じる。