この年表は、末尾の出典一覧に挙げた資料(美術館の解説など)で裏を取った内容だけを書いています。年齢はすべて数え年。諸説ある年には「頃」を付け、明治の伝記に由来する逸話には「伝記による」と付けています。
この資料は「北斎劇場」(luminous-site.com/hokusai/ 新設予定)のための、葛飾北斎の生涯の詳細年表です。作成日:2026-08-27。
末尾の出典一覧に挙げた資料(美術館の解説など)で裏を取った内容だけを書いています。
年齢はすべて数え年。諸説ある年には「頃」を付け、飯島虚心『葛飾北斎伝』(明治26年)由来の逸話には「伝記による」と付けています。
第一章 誕生と修業時代(1760年〜1778年)
十代の北斎(想像図)
| 年(和暦・数え年) | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1760年(宝暦10年・1歳) | 9月23日(新暦10月31日)、江戸の本所割下水(現・墨田区)に生まれる | 幼名は時太郎、のちに鉄蔵と称したとされる(伝記による)。父については諸説あり |
| 1763年頃(宝暦13年頃・4歳頃) | 幕府御用達の鏡師・中島伊勢の養子になったとする説 | 出自・幼少期は確実な資料がほとんど残っていない(島根県立美術館) |
| 1765年頃(明和2年頃・6歳頃) | 絵を描き始める | のちに本人が『富嶽百景』の跋文で「6歳より物の形を写す癖があった」と記す |
| 1771年頃(明和8年頃・12歳頃) | 貸本屋の丁稚として働く | 貸本の絵に親しんだ時期とされる。動向は伝承に依る部分が大きい |
| 1773年頃(安永2年頃・14歳頃) | 木版彫師の徒弟になる | 版画の摺りと彫りの現場を体で覚えた(伝記による) |
| 1775年頃(安永4年頃・16歳頃) | 実際に版本の版木の一部を彫った記録が残る | 絵師になる前に「彫る側」を経験していたことになる |
| 1778年(安永7年・19歳) | 当時人気の浮世絵師・勝川春章に入門 | 師の号「春章」の春と別号「旭朗井」の朗から「春朗」の号を受ける。異例の厚遇とされる |
第二章 春朗期(1779年〜1794年)
二十代の北斎(想像図)
| 年(和暦・数え年) | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1779年(安永8年・20歳) | 「勝川春朗」の名で役者絵を発表しデビュー | 入門の翌年という早さだった |
| 1780年代(20代) | 役者絵・相撲絵・黄表紙の挿絵などを幅広く手がける | 多彩で多作な習作期(島根県立美術館の区分) |
| 1792年末頃(寛政4年12月・33歳) | 師・勝川春章死去 | 新暦では1793年1月にあたる |
| 1794年(寛政6年・35歳) | 16年在籍した勝川派を離れる | 兄弟弟子・勝川春好との不仲説が有力。師の死後まもなく破門されたとする解説もある |
| 1794年頃(寛政6年頃・35歳頃) | 一時、七色唐辛子や暦を売り歩いて生計を立てたと伝わる | 絵師として食えない時期があった(伝記による) |
第三章 宗理期(1794年〜1804年頃)
三十代の北斎(想像図)
| 年(和暦・数え年) | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1794〜95年(寛政6〜7年・35〜36歳) | 琳派の系譜「俵屋宗理」を襲名 | 落款の使用は1795年からとみられる。襲名の経緯は明らかになっていない |
| 1796年頃〜(寛政8年頃〜) | 摺物(私家版の版画)・狂歌絵本を中心に活動 | 瀟洒な作風で人気を得た時期 |
| 1798年(寛政10年・39歳) | 宗理の号を門人に譲り、「北斎辰政(ときまさ)」と改号 | 「北斎」の号の始まり。北辰妙見菩薩(北極星)信仰に基づくとされる |
| 1798年頃(寛政10年頃・39歳頃) | オランダ商館長(カピタン)が北斎の絵を求め、支払いを巡る悶着があった | 『古画備考』の記述による。外国人との接点の早い例 |
| 1804年(文化元年・45歳) | 江戸・音羽の護国寺で120畳分の大達磨半身像を即興で描く興行 | 『武江年表』等に記録が残る席画パフォーマンス |
第四章 葛飾北斎期 — 読本挿絵の時代(1805年〜1810年頃)
四十代の北斎(想像図)
| 年(和暦・数え年) | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1805年(文化2年・46歳) | 「葛飾北斎」の号を使い始める | 世に知られる名前がここで揃った |
| 1805年〜(文化2年〜) | 読本(伝奇小説)の挿絵に本格的に取り組む | 生涯で約200冊・約1400図。読本挿絵の第一人者となる(島根県立美術館) |
| 1805〜09年頃(文化2〜6年頃) | 絵本『東海道五十三次』などの絵入り本も発表 | この時期は「画狂人北斎」の落款も用いた |
| 1806年(文化3年・47歳) | 春頃から戯作者・曲亭馬琴の家に寄宿したと伝わる | 同居するほど親密だったが、挿絵の意見が合わず喧嘩もしたという(太田記念美術館・伝記による) |
| 1807年(文化4年・48歳) | 馬琴作『椿説弓張月』の挿絵を開始 | 1811年までに全28巻29冊。二人の代表的な組み合わせ |
| 1811年頃(文化8年頃・52歳頃) | 読本の挿絵を巡る対立から、馬琴との組み合わせが途絶えたとする説 | 以後、二人の関係は疎遠になっていった |
第五章 戴斗期 — 絵手本の時代(1810年〜1819年頃)
五十代の北斎(想像図)
| 年(和暦・数え年) | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1810〜11年頃(文化7〜8年頃・51〜52歳頃) | 「戴斗(たいと)」と改号 | 絵手本(絵の教科書)へ力を注ぐ時期に入る |
| 1812年(文化9年・53歳) | 秋頃から名古屋の門人・牧墨僊の家に逗留し、絵手本の下絵を大量に描く | この下絵が『北斎漫画』の元になったとみられる |
| 1814年(文化11年・55歳) | 『北斎漫画』初編を刊行 | 人物・動植物・妖怪まで森羅万象を描いた絵手本。没後の1878年(明治11年)まで全15編・4000図超の大ベストセラーに |
| 1817年(文化14年・58歳) | 名古屋・西掛所(本願寺名古屋別院)で120畳の大達磨を再演 | 尾張藩士・高力種信の記録『北斎大画即書細図』が現存する史実性の高い興行。『北斎漫画』の宣伝目的とみられる |
| 1810年代(50代) | 『北斎漫画』のほか多数の絵手本を刊行 | 全国に200人以上いたとされる門人たちの手本となった |
第六章 為一期 — 冨嶽三十六景の時代(1820年〜1834年頃)
六十代の北斎(想像図)
釣り人に扮した自画像(1835年・76歳)
| 年(和暦・数え年) | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1820年(文政3年・61歳) | 還暦を機に「為一(いいつ)」と改号 | 「一(はじめ)に為(かえ)る」再出発の号とされる |
| 1820年代(文政年間・時期不詳) | 三女のお栄(のちの葛飾応為)、嫁ぎ先の絵師と離縁して北斎のもとに戻り、制作を助ける | 夫の絵の拙さを笑ったため離縁されたという逸話がある。北斎は「余の美人画は、阿栄に及ばざるなり」と語ったと伝わる |
| 1822年(文政5年・63歳) | 長女が夫の門人・柳川重信と離縁 | 家族について記録が残る数少ない出来事のひとつ |
| 文政年間(1818〜30年) | オランダ商館長が江戸参府のたびに北斎らへ洋風の絵を注文 | オランダの画用紙に描かれた作品群がライデン国立民族学博物館等に現存する(江戸東京博物館展覧会解説) |
| 1826年(文政9年・67歳) | シーボルト、商館長に随行した江戸参府の際に北斎らと面会 | シーボルトが持ち帰った絵が北斎周辺の作と研究されている |
| 1830年頃(文政13年頃・71歳頃) | 『冨嶽三十六景』の刊行が始まる | 版元は西村屋与八。刊行開始年は1830年説・1831年説がある |
| 1831年頃(天保2年頃・72歳頃) | 輸入顔料ベロ藍(プルシアンブルー)を活かした青摺が評判に | 「神奈川沖浪裏」の青もこの顔料による |
| 1831〜33年頃(天保2〜4年頃) | 「神奈川沖浪裏」「凱風快晴(赤富士)」「山下白雨」の三役が世に出る | のちに世界で最も知られる浮世絵となる |
| 1831〜32年頃(天保2〜3年頃) | 妖怪連作『百物語』 | 「お岩さん」「さらやしき」など5図が知られる |
| 1833年頃(天保4年頃・74歳頃) | 『諸国瀧廻り』全8図 | 各地の滝を描いた水の表現の集大成 |
| 1833〜34年頃(天保4〜5年頃) | 『諸国名橋奇覧』全11図 | 各地の珍しい橋を巡る連作 |
| 1833年頃(天保4年頃) | 『千絵の海』全10図 | 各地の漁と海を描いた連作 |
| 1834年頃(天保5年頃・75歳頃) | 『冨嶽三十六景』完結 | 好評のため「裏富士」10図が追加され、題名と違い全46図になった |
| 1830年代前半(天保初年) | 風景版画の流行を決定づける | 『冨嶽三十六景』の成功で、風景画が役者絵・美人画と並ぶ浮世絵の主要ジャンルになった |
第七章 画狂老人卍期 — 晩年(1834年〜1849年)
七十代の北斎(想像図)
八十代の北斎(想像図)
九十歳の北斎(想像図)
北斎の自画像(五点)
押すと大きな絵が開きます。
| 年(和暦・数え年) | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1834年(天保5年・75歳) | 「画狂老人卍」と号す | 最後の大きな改号。以後は肉筆画へ向かう |
| 1834〜35年(天保5〜6年・75〜76歳) | 絵本『富嶽百景』を刊行。75歳の跋文を記す | 要旨「6歳から物の形を写す癖があったが、70歳以前に描いたものは取るに足らない。73歳でようやく生き物や草木の骨格がわかりかけた。だから86歳ではさらに腕が進み、90歳で奥義を極め、100歳で神妙の域に達し、110歳になれば一点一格が生きているようになるだろう」 |
| 1836年頃(天保7年頃・77歳頃) | 天保の大飢饉のなか、画帳を描いて売り、糊口をしのいだ逸話 | 版元も苦境にあった時期(伝記による) |
| 1839年(天保10年・80歳) | 火事に遭い、家財と描きためた画稿を失う | 筆だけを握って逃げ出したという逸話がある(伝記による) |
| 1841年(天保12年) | 老中・水野忠邦の天保の改革が始まる | 庶民の娯楽への締めつけが強まる |
| 1842年(天保13年) | 浮世絵への統制。役者絵・遊女絵の禁止、色数や価格の制限 | 浮世絵界全体が打撃を受けた |
| 1842年頃(天保13年頃・83歳頃) | 信州小布施の豪農商・高井鴻山を初めて訪ねる | 天保の改革を避けるため、あるいは鴻山の招きによるとされる。訪問の回数・年次には諸説(北斎館) |
| 1844年(天保15年・85歳) | 小布施・東町祭屋台の天井絵「龍図」「鳳凰図」を描く | 鴻山はアトリエ「碧漪軒」を与えて北斎を厚遇した |
| 1845年(弘化2年・86歳) | 小布施・上町祭屋台の天井絵「男浪」「女浪」(怒涛図)を描く | うねる波の肉筆画。小布施再訪時の作 |
| 天保末期(1840年代半ば・80代半ば) | 弟子・露木為一が「北斎仮宅之図」を描く | こたつとみかん箱しかない部屋で応為と制作に明け暮れる暮らしぶりを伝える、目撃記録に基づく資料 |
| 1847年頃(弘化4年頃・88歳頃) | 「荷宝蔵壁のむだ書」 | わざと落書き風に描き、天保の改革の統制を風刺したとされる |
| 1848年(嘉永元年・89歳) | 小布施・岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」が完成 | 畳21畳分の大作。生涯最後の肉筆画の大作といわれる(北斎館) |
| 1848年(嘉永元年・89歳) | 絵手本『画本彩色通』を刊行 | 89歳でなお絵の描き方を教える本を出していた |
| 1849年正月(嘉永2年・90歳) | 肉筆画「富士越龍図」を描く | 富士を越えて天へ昇る龍。絶筆またはそれに極めて近い作とされる |
| 1849年(嘉永2年4月18日=新暦5月10日・90歳) | 浅草聖天町・遍照院境内の長屋で死去 | 娘・応為が門人に送った死亡通知が残り、暁七ツ時(午前4時頃)の病死と伝える |
| 1849年(嘉永2年・90歳) | 臨終の言葉「天があと十年、いや五年の命を与えてくれたら、真の絵師になれたものを」 | 飯島虚心『葛飾北斎伝』(明治26年)が伝える言葉。伝承としての性格を持つ |
| 1849年(嘉永2年・90歳) | 辞世の句「人魂で 行く気散じや 夏の原」 | 「魂ひとつになって夏の野へ気晴らしに出かける」の意。「ひと魂で」「夏野原」など表記に揺れがある |
| 1849年(嘉永2年) | 浅草の誓教寺に葬られる | 墓は現在も台東区元浅草の誓教寺にある |
終わりの一枚 富士越龍図1849年(嘉永2年)正月・90歳。落款「九十老人卍筆」。辰年生まれの自分を、富士を越えて天へ昇る龍に重ねたとみられる、最後の作。北斎館蔵。晩年の肉筆画の画廊はこの絵を押すと開きます
没後の補足(3件だけ)
| 年 | 出来事 | 一行補足 |
|---|
| 1867年 | パリ万博の日本出展をきっかけにジャポニスムのブーム | ゴッホ、モネ、ドガらが北斎に影響を受けた |
| 1878年(明治11年) | 『北斎漫画』が全15編で完結 | 初編から65年、没後も刊行が続いた |
| 1893年(明治26年) | 飯島虚心『葛飾北斎伝』刊行 | 門人らへの聞き取りに基づく初の北斎研究書。現在知られる北斎の逸話の多くはこの書による |
画号の一覧
北斎は生涯におよそ30の号を用いたとされる(和樂web等の解説による。主要な号は下の6つとする説もある)。理由は「弟子に号を売って収入にした」「幕府の統制から逃れるため」「作風転換の節目の決意」など複数の説が紹介されている。なお「引っ越し93回」の話とあわせ、これらの数字は飯島虚心『葛飾北斎伝』など明治期の伝記・伝承に基づくもので、北斎本人の記録ではない(太田記念美術館)。
| 号 | 使った時期(数え年) | その時期の代表作・作風ひとこと |
|---|
| 勝川春朗 | 1779年〜1794年頃(20〜35歳頃) | 役者絵でデビュー。役者絵・相撲絵・黄表紙など多彩な習作期 |
| 俵屋宗理 | 1794年頃〜1798年(35〜39歳頃) | 琳派の系譜を継ぐ号。摺物・狂歌絵本の瀟洒な作風。号はのちに門人へ譲った |
| 北斎辰政 | 1798年〜1805年頃(39〜46歳頃) | 「北斎」の始まり。北極星(北辰妙見)信仰に由来とされる |
| 葛飾北斎 | 1805年頃〜1810年頃(46〜51歳頃) | 読本挿絵の第一人者。『椿説弓張月』など。「画狂人」の落款も併用した |
| 戴斗 | 1810〜11年頃〜1819年頃(51〜60歳頃) | 絵手本の時代。『北斎漫画』初編(1814年) |
| 為一 | 1820年〜1834年頃(61〜74歳頃) | 錦絵の絶頂期。『冨嶽三十六景』『諸国瀧廻り』『百物語』 |
| 画狂老人卍 | 1834年〜1849年(75〜90歳) | 『富嶽百景』と晩年の肉筆画。「八方睨み鳳凰図」「富士越龍図」 |
このほかにも短期間の号・戯号が多数あり、同じ号を弟子が継いだ例もあるため、作品の落款の読み解きは現在も研究対象になっている。
劇画で見る北斎
本人の自画像をもとに描いた絵。押すと大きく開きます。
出典一覧(この年表で使った主な参照先)